340年続いた吉原、天明期の悲劇

徳川家康の江戸入城後、町作りに拍車がかかると商人や労働者が続々江戸にやってきた。彼らは男ばかりであった。やがて江戸詰めの田舎侍や参勤交代の随行などで多くの国元の侍がやってくると江戸はいよいよ男の街としての特徴を露わにする。

当初は主として駿河、京都辺りから引っ越してきた連中が常盤橋、鎌倉河岸、麹町、柳橋と分散して傾城町(遊女屋の集まっている町)を構えた。

幕府はかねて遊郭が勝手気ままに街中(まちなか)に拡散するのは風紀上良くないと考えていたので、小田原潘家臣の子弟であった庄司甚内の取り立てを受け入れ葺屋(ぶきや)町(ちょう)に2丁四方の土地をあてがい幕府公認の傾城町とした。

これが元吉原の始まりである。元吉原は現在の日本橋堀留町、人形町のあたりにあったようだ。

幾らもしないうちに郭内には百六十軒の揚げ屋、妓楼が建ち並び遊女も千人ほどになった。しかし元吉原だけでは需要を賄いきれず、非公認の傾城町も増えていた。

そんな矢先、1657年(明暦3年)正月に勃発した大火(「明暦の大火」)により江戸は焼け野原になり、元吉原も全滅した。焼死者は3~10万人と言われている。

これを機に幕府は町から離れた日本堤の田圃に廓を移す計画に着手した。移設に当たり幕府は楼主達に大盤振る舞いを施した。片田舎に追いやるという、一種の慰謝料の性格もあった。新吉原の広さは旧吉原の五割増し、引っ越し代として10500両が下賜され、初めて夜の見世も許可されるようになった。こうして新吉原は1659年江戸唯一の幕府公認遊郭として新たな一歩を踏み出した。

天明期(1781年から1789年)は新吉原開業から120年余り経過した頃で、ようやく吉原独特の文化、しきたり、流行、言葉づかい、仕組や行事・祭事が四季折々の風物詩として江戸に広く認知されるようになっていた。

廓の主役遊女が演ずる怨恨、嫉妬入り交じったさや当て、讒言(ざんげん)、確執、派閥といった人間くさい争いは登楼客の気を引くための権謀術数、虚実入り混じりった手練手管と相俟って一層異次元の度を増し、吉原特有の文化・伝統を形作っていった。

そして天明5年、今も悲劇として知られる事件が起きた。28歳の旗本(4000石)、藤枝外記と19歳の遊女綾絹(あやきぬ)の心中事件である。綾絹が裕福な町民に身請けされることになり、外記はそれを嫌って2人で逐電したが追い詰められて心中したのだ。

終焉の場所が三ノ輪だったことから箕輪(みのわ)心中と呼ばれている。当時心中は相対死と呼ばれて非常に重い犯罪だったので、外記のお家は改易、綾絹と同い年の奥方も母も押込の処分を受けることになった。

大田南畝が記した「君と寝やるか 五千石とろか 何の五千石 君と寝よ」は端唄として当時流行した。外記には4人の子供も居たが、愛を貫いた。何とも凄まじきは男女の仲である。

この話は岡本綺堂が「箕輪の心中」(岡本綺堂)でまとめている。

天明期、吉原に関連する小説の新刊としては、

『永遠の天明期-大江戸八百八町人物百景―我らかく生けり』(芦中順文著 1,760円 青山ライフ出版)がある。

https://www.amazon.co.jp/dp/4434341375/

カテゴリー: 本の紹介   作成者: admin パーマリンク

admin の紹介

青山ライフ出版 代表取締役。北海道生まれ。1983年早稲田大学教育学部卒。経営誌副編集長などを経て、2005年青山ライフ出版を設立。実用書、エッセイ、小説、詩集、絵本、写真集など幅広い出版物を発刊している。