新宿区では2017年2月の開館をめざして、
『漱石山房』記念館(仮称)を建設中である。
なぜ、この情報を知ったかというと、
行ったことのないところをぶらぶら歩くということを
休みの日などによくやっていて、突き当たったのである。
その日は、飯田橋駅で降り、早稲田通りを神楽坂に向かって
歩いて行った。神楽坂上まで上り、交差点を越えてさらに行くと、
東西線の神楽坂駅にいたる。
駅の西側の信号を左折すると矢来町となり新潮社の社屋があった。
昭和30年代を感じさせる、
私にとってはノスタルジックな重厚感のある建物である。
ここから数々の文学作品が生み出されてきたのだなと思いながら通
矢来町と新潮社を見てみたかったのである。
さて、次はどこへ行こうか?
スマホの地図を見ると、早稲田方面に『漱石公園』の表示がある。
これは行かねばと、細い通りを早稲田に向かって歩いた。
10分ほど歩いたろうか。
漱石公園は入口に漱石の胸像があるのですぐにわかった。
左手に工事中の建物があった。
小さな事務所に入ってみるとボランティアのおじさんが、
「まさに、この場所に漱石山房があったんですよ」
漱石に関するとても充実した資料をいただいた。
さすがに地元だけあって、見たこともない、
漱石の子どもの頃、
https://www.google.co.jp/maps/
『三四郎』『こころ』『道草』など、
その代表作はほとんどここ(現早稲田南町7番地)で書かれた。
ここにあった8畳が4部屋に、子ども部屋、
内田百閒、芥川龍之介、寺田寅彦、森田草平、
鈴木三重吉らの文人が木曜日になるとやってきて、
文学を語ったりしていた。
この漱石が最晩年を過ごした漱石山房を再現し、
資料などを展示した「漱石山房記念館」をいま建設中なのだ。
漱石は生まれたのもこの近くの喜久井町なので、
新宿区で生まれ、新宿区で亡くなったことになる。
新宿区としてはまさに地元の作家が国民作家ということで、
このような記念館を建てたくなる気持ちもよくわかる。
漱石は生まれてすぐに四谷の古道具屋に里子に出され、
すぐに戻されたが、またすぐ塩原という夫婦に養子に出された。
けれども漱石が8歳の頃、この夫婦が離婚したので、
夏目家に戻された。
6人兄弟の末っ子で、両親もすでに高齢であって、
余計者扱いされたという。
そういえば漱石の小品の中に幼少期の思い出を書いたものがあり、
実の母親が少しだけ愛情を見せてくれた言葉を
うっすらと記憶しているというくだりを読んで、
ああ、と思ったことがある。
そういうちょっとした少ない愛情、薄いけど確かに感じた愛情
に頼って、心の支えにしていたような気がしたからだ。
どうみてもかわいそうに思える幼少期だが、
こういう環境のどこに、
あのような巨大な才能をはぐくむものがあったのかと思う。
夏目坂の方にも足を伸ばし、印象に残る散歩であった。
