こういうことは言えば、当たり前のことですが、
案外意識されていないようです。
たとえばニュースは、もともとその辺にあるものではありません。
どこかの誰かが、これはニュースだといって、
どこかの媒体に書くと、それがニュースとなるのです。
書く人がいないと、それはニュースになりません。
同じような事象であっても、
書く人のがいるかどうかのタイミング、
人に書こうと思わせる情熱、
人の動機、
これはひとつのからくりのように思えます。
たとえば駅のホームから人が落ちたのを、近くにいた人が助けた
という、ありがちなことでも、書く人がいなければ
ニュースにはなりませんが、たまたまそこに書く人がいて、
美談となるような記事にすればニュースになります。
そして歴史とは、
50年、100年経っても忘れられないようなニュースが
積み重なって「歴史」として認識されるものですから、
これも誰かが書いたものなのです。
歴史が存在しているのではなく、
誰かが書いた記録が存在しているのです。
中国の歴史では、司馬遷
古代ギリシアの歴史ではヘロドトスが大きな役割を果たしました。
われわれが歴史を知りたいと思った時、
彼らが見聞きし、書き残したものに全面的に頼らざるを得ません。
歴史家によって検証されるにせよ、限界があります。
ということは、
歴史をつくったのは、書いた人だ、とも言えるのです。
一般的にものを書く人は、脇役のイメージがあります。
主役がパフォーマンスをして、それを記録する脇役です。
けれどもパフォーマンスはそのとき限りですが、
書いたものは長く残り、より多くの人に伝え、
影響力をおよぼすことができます。
そのためものを書く人は非常に尊敬、畏敬されます。
何をどのように書くか、微妙なニュアンスなどは
書き手の意のままなのですから。
芥川賞・直木賞の発表が毎回、大きなニュースになる
背景には、こういう事実もあるような気がします。
ペンは強し、です。
だからこそ見識が問われます。