お呼びでしょうか ―私は死神でございます―

この5月、『お呼びでしょうか ―私は死神でございます―』(永井治郎著 青山ライフ出版)が発刊された。

本書は、自殺もしくは自死専門のエリート死神。五つの挿話の主人公に本編の死神が絡み、物語が展開していく。
それぞれの挿話の主人公はすべて六十五歳以上の老人で、これまで懸命に生きてきたが、ときには運悪く、あるいは不条理な定めに翻弄され自ら死を望む。そのシグナルを天上の死神がキャッチし、娑婆に降りてきて、苦しみの負担を取り除き、心安らかに天上に導いていく。普通のおどろおどろしい死神と違った、ソフトな面を持った死神界でのエリート中のエリートである。
その死神が六十六歳から八十六歳までの老人たちの死に様に付き合っていく。

五つの物語に登場する老人たちの悲喜こもごもの人生の終活に、あるときは積極的に、あるときは少し傍観的に、死神が絡み合うという娯楽作品であるが、老いや死について、深く考えさせられる。
テーマは暗いが、それでいて、なぜか明るく、温かい気持ちになれる小説である。

お呼びでしょうか ―私は死神でございます―

お呼びでしょうか ―私は死神でございます―

情報の運び屋 感想

『情報の運び屋』の感想が続々と送られている。
その一部を紹介します。

【読者感想A】生き物は情報の運び屋だという視点に惹かれます。いま、連日戦争の報道がなされています。もともとウクライナには国民に選ばれた政権がありながら米国のバックアップを受けた企業の後押しで国民に選ばれた政権を倒し、その結果大統領になったゼレンスキーの政権は非合法である。元来定住していたペリシテ人(パレスチナ人)を約束の地・選ばれた民との預言をうけたユダヤ人が追い出しにかかり、その結果争いがつづき、世界中に広がるユダヤ人社会から潤沢なバックアップを受ける驚異の食料自給率85%のイスラエルの中東問題は解決を見ることはない。これらはすべて私がこれまで得ることができました稚拙ではありますが“情報”のほんの一部であります。〔松戸市在住、医師〕

【読者感想B】情報を「生き物」として捉え、そしてその情報への愛おしさを余すところなくこの書物に書き記された「情報愛」には、「ほっこり気分」にさせられますと同時に、「情報」が人のみならず動物各種へもたらすその恩恵の大きさを再認識させられました。ご丁寧にも、巻末には各種情報用語の解説までをきちんと添えていただき、これ迄、いい加減な各種情報用語への理解に安住していた自分を反省させてくれる機会ともなりました。

先ず、巻頭言(プロローグ)にて、「・・・・・情報の運び屋(上下巻)が新しい時代を担い、新たな価値観を構築するあなたの手元に、ようやく今、漂着したのです。」という書き出し、これは著者の文才を伺わせるに十分なもので、只々脱帽するばかりです。本書のサブタイトルを通覧してみましても、例えば「情報は歓喜し解き放された」、「林住期は情報の収穫期」、「生理痛は情報たちの怒り」、「情報たちの結婚式」etc. 何ともアイ・キャッチングでして、先ず読者の興味を誘うにはとても有効な手法と理解、感服いたしました。その一方で、例えば米国空軍のちょっとユーモラスな「情アトム」なる兵士を登場させるなど、もう文章表現を自家薬籠中のものとされている手法には思わずホッコリ、ニンマリです。

「情報は歓喜し解き放たれた」、「林住期は情報の収穫期」、「生理痛は情報たちのいかり」、「若き情報の礎」、「情報たちの結婚式」などなど、読者にとっては何とも “Eye catching” なサブタイトルも、本書への読書欲をいよいよ掻き立ててくれますネ。下巻は未読状態ながら、サブタイトルを見るだけでも読書欲をそそるに十分でして、引き続きの読書が楽しみでございます。〔東京都在住、元会社員〕

【読者感想C】
「情報の運び屋」というタイトルにとても興味を持ちました。「過去と現在の延長線上には、われわれの未来はない!」いかに視座転換することができるか・・・視座を高めるか・・・、それによって新しい気づきや発想、経験などを積むことができると気づかされました。(宇都宮在住、主婦)

【読者感想D】
情報の伝達手段が遺伝子だけだったものが、言語が出来、活字が出来、通信が現れ、空間的に時間的に情報が伝達されるようになった今、情報の運搬に着目されてのお話は興味深いです。学生時代に哲学書を読み全知全能の神による超人君主が理想ではないかと思ったこともありました。(中国やロシアの状況や宗教戦争をみて超人君主主義は非常に危険とさとりましたが・・・)〔会社社長〕

情報の運び屋 上巻 情報の路

情報の運び屋 下巻 情報の詩

自費出版のメリット

今ではすっかり世間に浸透した自費出版という言葉、
人によっては、自主出版、自己出版などとも呼ばれていますが、
自分が主体となって本を出すという意味では、みな同じです。
今日はあらためて、そのメリットなどを説明したいと思います。

自費出版は、多くの著者にとって魅力的な選択肢です。
自分の作品を自由に表現でき、読者と直接つながることができるからです。

自費出版では、著者が自分の考え、世界観、価値観、ビジョン、思想、想い等々を
自由に表現できます。
言葉遣いや用語の選択も含めて、
独自のアイデアやスタイルを追求し、制約なく執筆できることは大きなメリットです。

自費出版は、読者との直接的なつながりを築る機会でもあります。
メルマガやSNSを活用して読者とコミュニケーションを取り、
フィードバックを受けることで、
作品の改善や新たなアイデアを得ることができます。

一般に、自費出版が商業出版に比べて劣るのは販売力です。
商業出版の本は、大手・中堅出版社が利益を出すために社運をかけて宣伝します。
一般個人が、宣伝力、拡散力でかなわないのは、当然と言えば当然です。

そのため、自費出版の著者が、自著を数多く販売したい場合は、
自分自身をプロモーションする必要があります。
SNS、ブログ、メルマガなどを活用して、読者を引きつける方法を探求しましょう。
成功した作家たちは、独自のプロモーション戦略を展開しています。

いずれにせよ、自分で書いた本を、自分で宣伝して、売ったり、贈呈したりできる、
それだけでも、素晴しい経験だと思いませんか。
その上に、夢を叶えるチャンスもあるのです。

どんなに才能があっても、行動しなければ何も起きません。

下記、著者の大嶋先生も、最初は弊社の自費出版からスタートし、
今では人気作家になりました。

『それでも大丈夫 不安を力に変える方法』
(大嶋信頼著 1,400円+税 青山ライフ出版)です。

https://www.amazon.co.jp/dp/4434332848/

それでも大丈夫 不安を力に変える方法2

なんの成果も出せない不安があっても大丈夫。
成果が出せなくったって、あなたはやりたいことに向かって突き進んでいくから。

時間を無駄にしちゃう不安があっても大丈夫。
あなたは前人未到の境地を切り開いているのだから。

失敗する不安があっても大丈夫。
なぜなら、エラーの中に無意識が宿ってくれて、私たちが本当に求めている方向へと導いてくれるのだから。

勘違いしちゃっている不安があっても大丈夫。
その不安があなたの本当に求めている世界へと連れて行ってくれるから。

見掛け倒しになる不安があっても大丈夫。
あなたの本当に求めているものは見掛けじゃないから。

ヘタレになる不安があっても大丈夫。
あなたには、周りの人に力を分け与えるエネルギーで満ち溢れているから。

人の気持ちを考えて不安になっても大丈夫。
あなたはこれまで大変な環境を生き延びるためにこの能力を磨き続けてきたのだから。

予約受付中

それでも大丈夫

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それでも大丈夫 不安を力に変える方法

人気カウンセラー、大嶋信頼先生の新刊が2月末、全国書店、
およびネット書店で発売されます
『それでも大丈夫 不安を力に変える方法』
(大嶋信頼著 1,400円+税 青山ライフ出版)です。

社会の規範、モラル、コンプライアンス的なものが
日に日に厳しくなっています。

一見、良いことのように思えますが、
こうしたことは、一旦厳しくなると、
逆方向に緩まるということがないので、
ひたすら厳しくなります。

そうなると誰もが
ちょっとした不注意、油断、不運で、
批判や非難、処罰される側になってしまう。
そんなリスクに晒されている社会になります。

それは息苦しい社会です。
生きづらい社会です。

そんな現代社会で、日々、不安感にさいなまれながら
生きているわれわれにとって必要なことは何でしょう?

たとえば以下のようなことを言われたら安心しませんか。

「大切なことは無意識が決めてくれる。
苦手なことは無意識に任せてしまえば大丈夫。
困っていても無意識に任せれば、勝手に片づけてくれるから大丈夫。
いろいろなことを楽しんで、忖度しないで自分に正直に生きて大丈夫。
常識に縛られず、周囲の評価を気にしないで生きても大丈夫。
どんなときも無意識が共にいるから大丈夫。
ありのままの自分で生きて大丈夫。
あなたは自由に、のびのびと生きられる!」

取越し苦労が多い人にとって
とても安心できて、心が軽くなる本です。

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情報の運び屋 読者の感想

昨年末に発刊された「情報の運び屋」について、多様な感想が寄せられております。
その一部を紹介します。

A氏
 いわゆる若干退屈な自伝を想像していた私にとつて、まず書き出しからおどろかされました。物語としていくつもの壮絶な内容を含み、この小説のフィクションとノンフィクションの境目はどこにあるのか・・・
 上下編を読み通し、恋愛小説、青春小説、戦争小説、経済小説、芸術書、哲学書等々を一度に縦断したような気持ちになり、人間を含めた生物すべてを「情報」という観点で見ただけでなく、地球全体までも「情報」という観点で見ると、いろいろなことに改めて気づかされることが多くありました。
 また『身情』『心情』とそれぞれの『情善』『情悪』の考え方には私自身、大変共感するものがあります。人生の節目情報も今回を契機に自身を振り返ってみると、思い起こされることが多く納得してしまいました。
 最後に、出版後のことまで俯瞰するように書かれていることに、新鮮かつ不思議な感覚を覚えました。
 いわゆる「情報産業」の片隅に身を置くものとして、『情報』の言葉の多様性とその重みを改めて噛み締めております。そして、主人公を『真情』とされたように真の情報とは何かと、私自身にも投げかけてみたいと思います。
 余談ですが、全体の流れは別として、大変驚かされた部分があります。下巻「情報の汗」の部分で書かれている、子会社へのシステム開発委託業務一括外注のことです。実は、弊社は基幹システムの納期直前の告知による大幅遅延により、システムベンダーと大きなトラブルに発展しました。この時想像していたことが規模こそ違いますが、同様のことが起きていたのではないかと、身につまされました。

B氏
 豊かな人生経験や、様々な出来事にまなざしを向けてきたからこそ紡ぎだされた言葉(情報)たちに圧倒された次第です。硬軟自在の表現が刺激的であり、現在の社会に示唆的な内容に、社会科(地歴科)の一教員として、大変興味深く読ませて頂きました。
 本校の首都圏研修も、著者の提唱されている「情報の運び屋」によって、今年度の担当者となった私や2学年の生徒たちに運ばれてきたものかと存じます。今度は、この「情報」を「運び屋」として、次の世代に繋いでいくことこそ、私の責務だと感じた次第です。貴書につきましても、僭越ながら運び屋として、貴母校の後輩たちにも手に取ってもらいたく、本校図書館に寄贈させていただきます。〔高等教諭〕

情報の運び屋 上巻 情報の路

情報の運び屋 下巻 情報の詩

「情報の運び屋」本日発売!

『情報の運び屋(上巻)情報の路(みち)」および「情報の運び屋(下巻)情報の詩(うた)」(大崎俊彦著 1,350円+税)は
本日、全国書店およびネット書店で発刊された。

著者はこれを、以下のように独特の表現で説明している。

真の豊かさを情報に求めて、「情報の路と詩」は、情報の森の中へと消えていった。そして新たな“情報の運び屋”となり本書の販売を開始した。

「情報の運び屋(下巻)情報の詩(うた)」の最終章【情報の森】では、情報の路と詩は、情報の森の中で消えて逝(ゆ)き、
読者の手元で新たな“情報の運び屋”となる姿を、下記の如く執筆(一部抜粋)している。

———————
この情報の運び屋の情報の路と情報の詩は、情報の森を目指して歩を進めていったが、その足跡は、何時の間にか情報の森の中へと消えて逝ってしまった。

そして情報の森の住人である情報の運び屋たちが、自分の手元に漂着した情報の路、情報の詩を手にすると、これらに火をつけて次々と燃やしてしまった。

各界で活躍する情報の森の住人たちは、その焼いた灰を手にすると、それぞれの専門分野である桎梏(しっこく)の闇から広大(こうだい)無辺(むへん)の大空へ、過酷な砂漠から肥沃な大地へ、風雨荒れ狂う海原(うなばら)から豊穣(ほうじょう)な海へと持ってゆき、それぞれの情報の森の中へ撒き散らしていく。

「ああ情報たちよ。
滅びるものは滅びよ。
消え去るものは消えよ。
そして環境の変化に対応してゆける確かなものだけが、
生き残ってゆけ。

ああ情報たちよ。
伸びるものは伸びよ。
発展するものは発展せよ。
そして情報の多様化の中で生きられる確かなものだけが、
生き残ってゆけ。

ああ情報たちよ。
ああ情報たちよ」

最後に、本書の著者は、読者に向けて以下のように挨拶している。

————————-
読者のお手元にようやく漂着した本書は、過去と現在の延長上にない21世紀以降の情報観を、平易なフィクションやノンフィクションの自叙伝的形式で“情報の運び屋”を執筆しました。

我々人類だけでなく、動物や昆虫や植物などあらゆる生物たちも、お互いにコミュニケーションを取り合っている情報の運び屋であるという新たな思想観が、人々で賑わう都会の街角に満ち溢れ、農山村の森や耕地や、そして漁村の海に自然発生的に拡がることを夢見ています。

現代の諸課題に取り組んでおられる読者の方々に、“情報の森”という新たな価値観が浸透し、多様性の重要性を再認識して、お互いの違いを理解し尊重し合いながら、平和裡に諸課題解決の扉を開く、その鍵のひとつとなれば幸いです。

情報の運び屋 上巻 情報の路

情報の運び屋 下巻 情報の詩

「情報の運び屋」としての人生を描いた自伝的小説が発刊間近に!

2023年12月下旬に青山ライフ出版から全国書店で発刊される『情報の運び屋(上巻)情報の路(みち)」(大崎俊彦著 1,350円+税)と「情報の運び屋(下巻)情報の詩(うた)」(大崎俊彦著 1,350円+税)の発売がいよいよ間近になってきました。

情報と言っても、情報論のような科学を論じる本ではありません。
内容はきわめて人間的なものです。
そのような人間的な情報が、この世で最も必要な、有用な情報だとしたら、、、
そこに著者の想いの真髄があるような気がします。

その部分を紹介する。

———————
いよいよ人生(じんせい)終焉(しゅうえん)の後期高齢者と呼ばれる満七十五歳の壁を超え、自分の父親が逝去(せいきょ)した八十二歳の誕生日を迎えていた。

これまで過ごした人生の雷雨の如き出来事、落葉が舞い散る如く逝去した仲間達の葉擦(はず)れ音、病と闘いながらも短い命を精一杯奏(かな)でた、親友の懐かしい美しい虫の音色の如き生き様など、それぞれが一生懸命生きた人生街道、つまり情報運搬屋としての足音が、しみじみとした晩秋の気配となって、筆者真情の心耳(しんじ)を通して心情と身情に響いていた。

「母情愛の運搬屋のフィナーレは、
花びらに囲まれた美しい母の遺体。
その燃える炎の悲しみは、
葬祭場の煙突から煙となり、
空へとたおやかに立ち昇り、
風となって大空の中に融けていく。

母情愛の身情たちのフィナーレは、
花びらに囲まれた美しい母の遺骨。
その灰の中に残った美しさは、
葬祭場から菩提寺の墓へ移され、
墓地深く永久の形見となり、
土に還って墓石に刻まれていく。

母情愛の心情たちのフィナーレは、
花びらに囲まれた美しい母の遺影。
その微笑んだ姿の寂しさは、
葬祭場の参列者の涙となり、
遺影の笑顔が心に刻まれ、
永久の情報となって生きていく」

その “お別れ会”に参加したもう二度と会うことがない人々が、ふたたび懐かしい時空間(じくうかん)の想い出情報に浸り、これをお土産にして帰宅したそれぞれの家や町や地域の情報たちも、楽しかった懐かしい想い出情報で、再び健康と笑顔を取り戻していった。
死の直前まで笑顔溢れる最終の情生を過ごされた方々は、次々と静かに、終点の終焉(しゅうえん)の駅で下車されていく……。

情報の運び屋 上巻 情報の路

情報の運び屋 下巻 情報の詩

“方丈記”の世界観を現代に反映させてみる

2023年12月下旬に青山ライフ出版から全国書店で発刊される『情報の運び屋(上巻)情報の路(みち)」(大崎俊彦著 1,350円+税)と「情報の運び屋(下巻)情報の詩(うた)」(大崎俊彦著 1,350円+税)の情報、第4弾です。

本書では「人類は情報の運び屋である」と提言するが、その主張の骨子は、
鴨長明の随筆“方丈記”の世界観と奇妙に一致している。

『情報の運び屋』の著者は、鴨長明“方丈記”の一部を現代風に書き換えてみた。
800年の歳月を乗り越えて、そのまま活き活きとした姿となって、情報たちが非消耗性や耐久性を発揮して蘇(よみがえ)ることに気づいた。
そこで“現代版随筆方丈記”として改作、加筆などによる再生を試みた。

その部分を紹介する。

———————
「ゆく人の流れは絶えずして、しかも、もとの人にあらず。ネオンまたたく店などは、かつ消えかつ新装して、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある、サラリーマンと企業なども、またかくのごとし。

世界の都の東京に、社屋を並べ、市場を争へる、高き収益、いやしき地位争い、企業の競争は、世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし企業はまれなり。

あるいは去年倒産して今年管理会社となれり。あるいは企業買収されて系列会社となる。社員もこれに同じ。ビル街も変わらず、サラリーマンも多かれど、いにしえより見し人は、二、三十人が中に、わずかに一人、二人なり。

朝に出社し、夕に退社するならひ、ただ情報の運搬屋にぞ似たりける。知らず、入社しリストラされる人、いづかたより来たりて、いづかたへか去る。また知らず、仮の職場、誰がためにか収益や売上に心を悩まし、何によりてか人生を喜ばしむる。

その、社員と会社と無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。あるいは株価落ちて株券残れり。残るといへども紙屑となりぬ。あるいは市場しぼみて株価なほ消えず。消えずといへども終値を待つことなし」

「また、社員と経営者が無常を争ふさま、いはば労使紛争・内部告発に異ならず。あるいは社員辞めて企業残れり。残るといへども市場やマスコミにたたかれる。あるいは企業しぼみても社員なほ消えず。消えずといへども無給の給料日を待つことなし」

随筆“方丈記”【原文】は以下

「ゆく河(かわ)の流れは絶(た)えずして、しかも、もとの水にあらず。淀(よど)みに浮ぶ 泡沫(うたかた)は、かつ消えかつ結(むす)びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある、人と住家(すみか)と、またかくのごとし。

玉敷(たましき)の都のうちに、棟(むね)を並べ、瓦(いらか)を争へる、尊(たか)き、卑(いや)しき、人の住居(すまひ)は、世々を経て尽きせぬものなれど、これを真(まこと)かと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。
あるいは去年(こぞ)焼(や)けて今年は造り、あるいは大家(おおいえ)ほろびて小家(こいえ)となる。住む人もこれに同じ。處(ところ)も変わらず、人も多かれど、古(いにしへ)見し人は、二、三十人が中に、僅(わずか)に一人、二人なり。

朝(あした)に死に、夕(ゆうべ)に生まるる習(なら)ひ、ただ水の泡にぞ似たりける。
知らず、生まれ死ぬる人、何方(いづかた)より来たりて、何方(いづかた)へか去る。
また知らず、仮の宿り、誰(た)がためにか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。

その、主(あるじ)と住家(すみか)と無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。
あるいは露落ちて花残れり。残るといへども朝日に枯れぬ。
あるいは花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども夕を待つことなし」

情報の運び屋 上巻 情報の路

情報の運び屋 下巻 情報の詩

情報の本質は、信頼にある

2023年12月下旬に青山ライフ出版から全国書店で発刊される『情報の運び屋(上巻)情報の路(みち)」(大崎俊彦著 1,350円+税)と「情報の運び屋(下巻)情報の詩(うた)」(大崎俊彦著 1,350円+税)の情報、第3弾です。

本書では「情報の本質は、信頼にある。お互いに信頼し、お互いの違いを、お互いに理解し認め合って、平和の実現と維持こそ、われわれ人類の究極の責務だ」と提言しています。

われわれは“情報の運び屋”という客観的立場に立ち、お互いの違いを、お互いに理解し合い、お互いに認め合って、平和で真に豊かな多様性に満ち溢れた情報の森で覆われた世界を実現し、これを維持するのが責務である。

という、主張はすばらしいです。

単なるきれいごとの主張ではなく、これができないと、どんなことになるか、歴史に学ぶこともできますし、日々のニュースでも目にしています。

「情報の運び屋」の「(上巻)情報の路」の第2章【情報の悲】;情報は情報を食べて生き抜く、第8節.原子爆弾投下の悲劇情報の中で、下記のように表現しています。

その部分を一部抜粋し、紹介します。

———————
敵国の大型爆撃機一機は2機の観測機を従え、約35万人が生活していた広島の街の上空に侵入し、高度9千メートルから人類史上初の原子爆弾を、現在は平和祈念公園となっている爆心地へ向け投下したのだ。

この原子爆弾は、投下から43秒後、地上600mの上空で、眼もくらむ強烈な閃光(せんこう)を放って大爆発を起こした。炸裂(さくれつ)した瞬間、小型の太陽の如き灼熱(しゃくねつ)の火球(かきゅう)となり、火球の中心温度が摂氏100万度以上にもなった。そして一秒後には、最大直径280mの大きさになり、爆心地周辺の地表面温度は、3,000~4,000度に達したと推定されている。

この原子爆弾の大爆発と強烈な放射線及び猛烈な爆風は、そこにいたあらゆる生き物を焼き殺し、そこにあったすべての構造物を破壊し、焼き焦げた影を残した。そして立ち昇るきのこ雲の下では、つい先程までささやかな夢と希望と暖かさに包まれた家庭や、貧しくも心豊かに生きる人達が棲んでいた街が、一瞬にして瓦解(がかい)し阿鼻叫喚(あびきょうかん)の地獄になった。

次々と数多くのご遺体が荼毘(だび)に付されていくが、その人骨を、埋葬する場所もなく、人骨が瓦礫(がれき)の中で雨ざらしになっている。赤黒く焼け爛(ただ)れた手に、焼けた腕の皮が、黒いボロキレのようにぶら下がってヒラヒラしていた。そして最大の悲劇は、こうして逝去(せいきょ)される人々は皆、家族や友人や知人の誰一人として立ち会うことなく、一人寂しく死に旅立っていくことだ。

人生と情生(じょうせい)の終着駅で、その家族や親戚、知人や友人など、本人を知っている人が、誰もいないところで…、唯一人寂しく他界していく姿は、この世に情報の運び屋として生まれ育った人生、その情生の総決算である終着駅での最大の悲劇だ。

情報の運び屋 上巻 情報の路

情報の運び屋 下巻 情報の詩

人類は情報の運び屋であり、情報は多様性を必要とする

今回も、2023年12月下旬に弊社から全国書店で発刊される『情報の運び屋(上巻)情報の路(みち)」(大崎俊彦著 1,350円+税)と「情報の運び屋(下巻)情報の詩(うた)」(大崎俊彦著 1,350円+税)について紹介させていただきます。

本書は、「人類は情報の運び屋である」という非常にユニークな思想を元に書かれた物語です。「情報というものは、多様性がなければ生きて行けない。人種や民族、国家や経済体制、政治や宗教等の多様性は、分断の壁ではなく、情報の努力と進化の結晶であるから、それを理由に争うのは本末転倒である」と訴えています。

その部分をどのように主張しているのか。
「情報の運び屋(上巻)情報の路」の第2章から一部抜粋し、紹介します。

———————以下、抜粋
人種や民族、国家や経済体制、政治や宗教、言語や生活習慣、思想や主義主張などのあらゆる違いは、分断の壁ではない。これらの違いは、情報たちそれぞれが直面した環境の変化に適応しながら生き残り、そして生き残った情報たちが汗と涙の努力と、創造と進化を遂げた結晶とも言うべき素晴らしい多様性の成果である。
情報は、多様性がなければ生きて行けない。つまりあらゆる違いは、これまで激変する環境の変化に適応しながら生き残り続けた、情報たちの足跡とも言うべき素晴らしい特長なのだ。

従って情報の運び屋たる人類は、こうした人種や民族、国家や経済体制、政治や宗教、言語や生活習慣、思想や主義主張など、あらゆるお互いの違いを、お互いに理解し合い、お互いに認め合って、その違いを融合させた雑種強勢ともいうべき多用性溢れる情報の森造りを目指さなくてはならない。その情報の森に、あらゆる分断などの壁を超越した、平和で豊かな人類社会が構築されると主張しているのが本書だ。

風を身情の肌で感じるがよい。
風は自由にして爽やかで、
風は山や森や荒野の壁を越え、
風は人種や民族や国境も超えて、
風は憎悪を吹き去りながらも、
風自らは汚れることなく爽やかである。
風は大自然の恵みも乗せて、
風は種を育みながら吹いてゆく。
なぜ、情報運搬屋の人類たちは、
風になりきれず争うのだろうか?

水を身情の口に含んでみるがよい。
水は自由にして清らかで、
水は雨や川や海流の壁を越え、
水は言語や文明や思想も超えて、
水は汚れを飲み込みながらも、
水自らは汚れることなく純粋である。
水は情報たちの期待も乗せて、
水は命を育みながら流れて行く。
なぜ、情報運搬屋の人類たちは、
水になりきれず闘うのだろうか?

時を身情の鼓動で刻んでみるがよい。
時は自由にして媚びずに、
時は音や光や歴史の壁を越え、
時は宗教や文化や価値観も超えて、
時は過去を美化しながらも、
時自らは乱れることなく正確である。
時は過去の想い出も乗せて、
時は夢を育みながら刻んでいく。
なぜ、情報運搬屋の人類たちは、
時になりきれず戦うのだろうか?

情報の運び屋 上巻 情報の路

情報の運び屋 下巻 情報の詩

人類は情報の運び屋であり、過去と現在の延長上に、われわれの未来はない

2023年12月下旬に『情報の運び屋(上巻)情報の路(みち)」(大崎俊彦著 1,350円+税)と「情報の運び屋(下巻)情報の詩(うた)」(大崎俊彦著 1,350円+税)が発刊されます。

「人類は情報の運び屋である」という非常にユニークな思想を元に書かれた自伝的物語です。

「“情報の運び屋”は、生まれる時代と場所を選べない。
しかも過去と現在の延長上に、われわれの未来はない。」
この自明の理を基軸にした自伝的物語は、これまでの物質とエネルギー文明偏重の「物質文明時代」から「情報文化時代」へ価値観をシフトさせ、未来の立ち位置から現在を視座(しざ)転換(てんかん)して、人類社会が直面している諸課題の解決に取り組む必要性を訴えています。

「情報の運び屋」の「(上巻)情報の路」の第2章【情報の悲】;情報は情報を食べて生き抜くの中にある、一部を抜粋し、紹介します。

———————

かつて戦争という死に至る病気に取り憑(つ)かれた軍人という名の情報運搬屋の人達が、国政を動かす軍国主義の国があった。その国は、御国(おくに)のため天皇陛下のための戦争という美名の下で、罪なき人を殺戮(さつりく)し情報を抹殺(まっさつ)し、その未来を奪っていった国であった。

しかもマスコミ商業主義者達も、マスコミの理念や信念を放棄し、販売部数を伸ばすべく、富国強兵、植民地拡大の記事を書きまくり、その国民達も戦争正当化街道や、軍国主義礼賛(らいさん)橋造りに協力していた。

当時の西欧列強国は、アフリカ・アジア各国を植民地化して、その国の資源や冨を収奪(しゅうだつ)して西欧に持ち逃げし、奴隷(どれい)を作り、その民族と情報を抹殺(まっさつ)して、寡婦(かふ)を作っていた。

悲しいことに情理(じょうり)の国も、西欧列国の白人と同じ植民地化施策をとり、同じアジアの同胞(どうほう)と情報たちに、陳謝してもしきれない多大な被害と犠牲を強いる暴挙を展開していく。そしてついに、狂気が跋扈(ばっこ)する第2次世界大戦という嵐が、赤い地球全体を飲み込んでいった。

この嵐に巻き込まれた一般市民の戦争犠牲者数は、全世界の死亡数で約6千万人以上、アジアだけでも約2千万人以上、そして日本人も310万人を超える人々と、その情報運搬屋に託された情報達が死滅したと推定される。

そして現在も国際紛争や民族闘争、宗教紛争等による戦闘やテロが頻発(ひんぱつ)し、今もロシア軍はウクライナへ侵攻し続けており、イスラエル軍はハマス組織壊滅(かいめつ)の名のもとにガザ地区に侵攻して、罪なき住民や女性と子供たちまで殺戮(さつりく)し続けている。

緑の地球が、人口爆発で、悲鳴をあげている。
青い地球が、温暖化の熱で、もがき苦しんでいる。
赤い地球が、絶え間なき紛争で、血を流し泣いている。

———————抜粋ここまで

以上のように、とても熱い著者の想いが表現されています。

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『トヨタは「鉄」、MINIは「楽しみ」を売っている  もったいない!  日本企業が気づいていない経営と戦略問題』

こんにちは。

5月18日、日経新聞に

『トヨタは「鉄」、MINIは「楽しみ」を売っている  もったいない!  日本企業が気づいていない経営と戦略問題』

の広告が出ました。

一頃はコングロマリットというものがもてはやされていた感がありますが、単になんでもかんでもやるのではなく、企業というものは、やはり戦略が必要。

その企業に戦略があるかどうかは、その製品、ブランドを見れば、わかる人はわかるものです。

日経新聞広告

日経新聞広告

トヨタは「鉄」、MINIは「楽しみ」を売っている

紀伊國屋書店 梅田店で紹介される

フォーリーさんの著書

『トヨタは「鉄」、MINIは「楽しみ」を売っている  もったいない!  日本企業が気づいていない経営と戦略問題』が紀伊國屋書店 梅田店のツイッターで紹介されました。

https://twitter.com/KinoUmeda/status/1656207973017092096?s=20

著者が来てくれると、書店の皆様も張り合いが出ますよね!

 

アティテュード(attitude)がない日本企業

この5月、日本の大企業にとっては、かなり辛口のビジネス書が発刊されます。
経営の本質を突いたとてもよい本です。

トヨタは「鉄」、MINIは「楽しみ」を売っている

トヨタは「鉄」、MINIは「楽しみ」を売っている

『トヨタは「鉄」、MINIは「楽しみ」を売っている もったいない! 日本企業が気づいていない経営と戦略問題』
(フォーリー・マーク著 SIBAA BOOKS)です。

どんなことが書いてあるか、引用します。
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 私にとってトヨタやホンダは「自動車会社」ではありません。トヨタは「製造会社」でありホンダは「エンジニアリング会社」だといつも思っていました。両社とも強みである製造やエンジニアリングに力を集中させましたが、ブランドイメージが不明なために、競争力がある「本当の自動車会社」が出てきたら競争できるかどうか、と若い頃から私は心配していました。(中略)
 トヨタは「自動車会社」ではなく、「製造会社」だと思っている私にとって、つまりは、トヨタは単に「鉄」を売っているにすぎません。ある知人は、私がそう言うと「ちゃんと動く鉄だよ」と反論したものです。
 一方で、ミニ(Mini)はどうでしょうか。ミニが売っているのは自動車ではありません。「Fun(楽しみ)」、「Funky(型破りな)」、「Cool(格好いい)」というアティテュードを売っています。BMWも自動車を売っていません。BMWは「Sheer driving pleasure(駆けぬける歓び)」や「The ultimate driving experience(究極の運転体験)」というアティテュードを売っています。
 日本語でちょうどいい言葉のニュアンスが見当たらないので、私は英語のアティテュード(attitude)という言葉をよくそのまま使っています。直訳の「態度」「姿勢」「心構え」「考え」などはどれもピンとこない。ここで使うアティテュードは特定の「気持ち」「感情」「人格」「性格」「考え方」「生き方」のようなものをすべて包括した表現です。

「情熱」から「創造する」もの

 これは単に「ブランディング」や「マーケティング」の問題ではありません。会社のDNA(遺伝子)や存在意義から発生する、経営の根本的な問題です。
 トヨタの企業DNAが本当に「製造会社」なら「本当の自動車会社」は自動車の製造をトヨタに委託したほうがいいじゃないか、と三〇年前から私は思っていました。日本企業の技術やエンジニアリングはきわめて高レベルですね。多くの場合、世界一だと思います。しかし企業の経営、戦略、市場理解、顧客理解の面が(特にグローバルで)弱いのです。それが実にもったいない!
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これはどういうことを言っているのか。

アティテュードがなくて、単に拡大を目指しているから、ブランドイメージがごちゃ混ぜになっている、大半の日本企業の現状を指摘しているのです。
これは大企業病の表れではないか?
経営がないのではないか?
とても、もったいないことをしていますよ、と。

アティテュードがなくて、単に拡大を目指している姿は、海外を含めた大きな視点から見るとどのように映るか……。
あれもこれもとごちゃ混ぜになって「売上だけ、利益だけ」と映ってしまいます。
そうなると、ブランドイメージは弱くなります。

日本在住30年の著者は、難しいことは言ってません。
経営の基礎に戻りましょう! と顧客の立場から貴重な提言をしています。

ここで、もう一度原点に戻れば、
日本企業にはチャンスがいっぱいあると主張しています。

トヨタは「鉄」、MINIは「楽しみ」を売っている