世界の偉人を年表化
「世界人物年表」(重田憲三監修 青山ライフ出版)はその中から現代の人類に最も影響力があったと思われる500余名を年代・分野・地域別に整理し、年表化した画期的な人物年表である。この年表を活用すれば、その時代に誰が何を成し遂げたのか、その人物がどんな時代を生きていたのか、その時代にどんな人物がいたのか、人物同士の接点はあったのかなど、100年、200年規模の俯瞰的な視点で人類史を見ることができる。
マリー・キュリー
今回はマリー・キュリーを挙げる。
1903年ノーベル物理学賞を女性として初めて受賞した。さらに1911年ノーベル化学賞を受賞。ノーベル賞を2度受賞した。原子から放射能が出ていることを明らかにし、ラジウム、ポロニウムを発見した。
(Wikipediaより)

マリー・キュリー

マリー・キュリーとアインシュタイン
マリー・キュリー(1867~1934)のプロフィール
〇ロシア・プロセイン・オーストリアの3国に分割されたポーランドは国名だけは残っていたもののポーランドという国は残っていなかったといえる。ロシアの圧政下におかれたそんなワルシャワにマリー(マーニャ)は生まれた。
〇父の名はスクロドフスキーで中学校で物理と数学を教えていた。母の名はボグスカで寄宿女学校で教師をしていた。ボグスカは校長に就任し、教師用の住まいに居を構えた。ボグスカは敬虔なカトリック教徒であった。
〇マーニャは成績が優秀であった。学校では首席で卒業して、17歳で先生となり、家庭教師で生活をしていた。ポーランドでは女性は大学にはいけなかったが、フランスのパリのソルボンヌ大学に通うことができることになった。しかし大学の講義についていけず、年長の24歳は大学の図書館で猛烈に勉強した。26歳で物理学の学位を首席で取得した。
〇大学に残り、物静かな青年マリー・キュリーと出会い紆余曲折しながら新郎36歳、新婦27歳で結婚した。その後は二人で研究し、ラジウムの抽出作業を行った。そして、「放射性物質に関する研究」という論文を発表し、ノーベル賞を受賞した。
〇ピエールは46歳で、馬車にひかれ、突然帰らぬ人となった。マリーは悲しみが去ることはなく、その後も研究を続けて「放射能概論」を発表し、ノーベル化学賞を受賞することになった。しかし、ピエールの教え子ランジュバン教授との恋仲が噂となり、アパートに身を隠した。ノーベル賞の辞退も考えられたが、私個人と関係ないと考え授賞式に出席した。
〇マリーの業績は偉大である。放射能のメカニズムを明らかにし、未知の元素ラジウムを発見し、ノーベル賞を2回受賞した。また、女性としての未知の分野に業績を上げ、科学分野での女性の進出を促した。
〇マリーの言葉–進歩はいつもそれほど早く容易には訪れません。–私は科学が美をもつと信じる者のひとりです。