世界人物年表-ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートヴェン

人類の誕生と総数

5万年前から数えて現代まで誕生した人類の総数は1082億人と推定される。
「世界人物年表」(重田憲三監修 青山ライフ出版)はその中から現代の人類に最も影響力があったと思われる500余名を年代・分野・地域別に整理し、年表化した画期的な人物年表である。

この年表を活用すれば、その時代に誰が何を成し遂げたのか、その人物がどんな時代を生きていたのか、その時代にどんな人物がいたのか、人物同士の接点はあったのかなど、100年、200年規模の俯瞰的な視点で人類史を見ることができる。

ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートヴェン
今回はベートヴェンを挙げる。
ボンの音楽家の家に生まれた。幼いころから父の英才教育を受けた。22歳のころにはハイドンに認められ、ウィーンに出た。ウィーンに来てから4年が経った1796年の時点で既に同世代の中でも最も評価される作曲家となっている。当時刊行された『ヴィーン・プラハ音楽芸術年報』の作曲家に対する寸評の項目においてベートヴェンはハイドンに次ぐ位置で評価されている。人物としては気分の揺れが激しく、変わり者であるとされたが、多くの人々から敬愛され、尊敬されていたことは、その盛大な葬儀と多数の参列者を集めたことからもわかる。生前はゲーテとともに散歩をしたこともあった。
(Wikipediaより)
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ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートヴェン(ドイツ)1770~1827のプロフィール

〇18世紀後半のフランス革命以前、音楽は貴族の娯楽であり、サロンでのつきあいの道具にすぎなかった。その意味で、音楽家たちは単なる職人という地位に甘んじていた。そうした中でベートヴェンが誕生し、音楽を未踏の芸術の域にまで高め、楽聖と呼ばれるまでになった。
〇ライン川沿いのボンで生まれた。祖父も父も選帝侯(神聖ローマ帝国の皇帝を選ぶ貴族)と呼ばれる居城に仕える楽師であった。
〇父からの音楽教育が始まり、18歳の時宮廷オルガン奏者となる。その後ウィーンに留学し、ハイドンに師事した。ウィーンではピアニストとして活躍し、「悪魔の指をもつ演奏家」として知られるようになった。
〇20代後半になって、作曲家として活動することになり、交響曲第1番を自ら指揮をとり、演奏した。その後旺盛な創作意欲を発揮し、数多くの名曲を生み出した。「月光」、ボナパルトに捧ぐとした3番「英雄」、第5番「運命」、第6番「田園」など発表し、名声を得た。
〇弟二人の面倒を見ることになったが、あまりそりがあわず、弟の妻とも折り合いが悪かった。この愛憎半ばする兄弟関係はベートヴェンを苦しめた。
〇酒を飲むことが好きだった。夕方になるとふらりと居酒屋に顔をだしビールなどをたしなむこともしばしばであった。有名な作曲家になった後も変わらなかった。もっとも愛したはライン産のワインであった。
〇晩年は酒の影響もあり、腸と肝臓に疾患を併発し、腹水がたまり始め、数回の手術をしたが、56歳で息を引き取った。友人に向かって、「友よ、喝采を、喜劇は終わった」というローマ喜劇の常套句をユーモアを交えてつぶやいた。
〇ベートヴェンの言葉–私が心のなかにもっているものは、外に出なければならない。だから私は作曲する。

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世界人物年表

世界人物年表

世界人物年表-トルストイ

人類の誕生と総数

5万年前から数えて現代まで誕生した人類の総数は1082億人と推定される。
「世界人物年表」(重田憲三監修 青山ライフ出版)はその中から現代の人類に最も影響力があったと思われる500余名を年代・分野・地域別に整理し、年表化した画期的な人物年表である。

この年表を活用すれば、その時代に誰が何を成し遂げたのか、その人物がどんな時代を生きていたのか、その時代にどんな人物がいたのか、人物同士の接点はあったのかなど、100年、200年規模の俯瞰的な視点で人類史を見ることができる。

レフ・トルストイ
今回はレフ・トルストイを挙げる。
トルストイは帝政ロシアの小説家、思想家。ドストエフスキー、ツルゲーネフと並び19世紀ロシアを代表する文豪である。
(Wikipediaより)
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レフ・トルストイ(ロシア)1828~1910のプロフィール

〇モスクワから南へ190キロメートルほど離れたヤースナヤ・ポリャーナで生まれた。
ドイツからやってきた名門の出として、伯爵家の四男として何不自由ない子供時代を送った。
〇13歳になって家庭教師に、トルコ語やタタール語、アラビア語などを学んだ。16歳で特別に、カザン大学東洋語学科アラブ・トルコ語専修に入学した。
〇その後大学を中退し、士官候補生試験に合格した。武勲もあったが、勲章はもらわず、小説の執筆に夢中になった。
〇初期の代表作「幼年時代」は月刊誌「現代人」に掲載されたが、もっとも影響を受けたのはイギリスの作家チャールズ・ディケンズだった。
〇トルストイは34歳で、18歳の娘ソフィア・ベルスと結婚した。結婚生活は平穏で幸福なものであった。そんな幸せな日常のなかで書き始めたのが、「戦争と平和」である。ナポレオン戦争を背景にした壮大なこの歴史絵巻はホメロスの「イリアス」にも匹敵する叙事詩として世界的名声を決定的にした。
〇先輩ツルゲーネフとはすぐに意気投合したが、トルストイの妹との結婚話が不調になったためと作家としての資質のちがいから絶交状態となった。しかし、ツルゲーネフは生涯トルストイを高く評価していた。
〇51歳から書き始めた「懺悔」以降、キリスト教的・政治的・道徳的な論文の執筆に精力を注ぐようになった。
〇トルストイは、妻ソフィアとの間に9男3女、計12人の子供をもうけた。末子が生まれたときには60歳であった。父親は家庭内では子供たちとの理解が得られなかったため四面楚歌となっていた。晩年家出をして、転々として1910年82歳で亡くなった。
〇トルストイの言葉–幸福な家庭はどれも互いに似たようなものだが、不幸な家庭はみなそれぞれに不幸である。

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世界人物年表

世界人物年表

世界人物年表―カール大帝「ヨーロッパの父」

人類の誕生と総数

5万年前から数えて現代まで誕生した人類の総数は1082億人と推定される。
「世界人物年表」(重田憲三監修 青山ライフ出版)はその中から現代の人類に最も影響力があったと思われる500余名を年代・分野・地域別に整理し、年表化した画期的な人物年表である。

この年表を活用すれば、その時代に誰が何を成し遂げたのか、その人物がどんな時代を生きていたのか、その時代にどんな人物がいたのか、人物同士の接点はあったのかなど、100年、200年規模の俯瞰的な視点で人類史を見ることができる。

カール大帝(シャルル1世)
今回はカール大帝を挙げる。
カール大帝はフランク国王であり、初代ローマ皇帝である。
ドイツおよびフランスの始祖的英雄とみなされており、ローマ皇帝としてはカール1世、フランス国王としてはシャルル1世と称される。
英語読みではチャールズ大帝とも称される。
古典ローマ、カトリック、ゲルマン文化の融合を体現した存在であることから「ヨーロッパの父」と呼ばれる。
(Wikipediaより)
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カール大帝(フランス語でシャルルマーニュ フランス)747~814のプロフィール

〇カロリング家の2代目として生まれる。メロヴィング家がフランク王国を治めていたが、カロリング家が王党を教皇の支持を得て簒奪した。
〇弟カールマンとともに王位継承したが、771年に突然カールマンが亡くなってカールが23歳で王位に就いた。
〇キリストの教えを国家の理念に据え、さらにその教えを四囲に広めようと武力進出に邁進し、その結果フランク王国は現代のフランス、ドイツ、イタリアを含む広大な領土を獲得する。古代ギリシャ・ローマの叡智をゲルマンの血に継承した西欧文明の中興の巨人となった。
〇カール大帝は761年アキタニア遠征初陣を飾ってから、最後の出陣となる810年のデーン人との対陣までの約50年間自ら陣頭に立ってフランク王国軍を指揮してきた。
〇カールはクリスマスの日にサンピエトロ大聖堂において、ローマ皇帝の冠を授けられた。このため、後世に、大王ではなく大帝と呼ばれるようになった。
〇カール大帝の風貌は190センチを超える長身で、やや太めながら全体にバランスがとれ、威厳に満ちた体格であった。声はやや高く言語明瞭ではあったが、大きな声ではなかった。特徴的なのはきらきらと輝く大きな目と豊かな髭であった。
〇戦争に明け暮れながらも、カールはわかるかぎり生涯4度の結婚をしている。男子8人、女子10人をもうけている。女子はほとんど手もとに置いて育てている。最初の妻との間には長男ピナンを得ている。2番目のランゴバルド王女との間には子がなかった。3番目の妻であるヒルデガルトとの間には、双子を含む4人の男子が生まれている。
〇カール大帝の言葉–余の務めは聖なるキリスト教を異教徒の侵入と不信心から守ることだ。

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世界人物年表

世界人物年表―アイザック・ニュートン

人類の誕生と総数

1万2000年前から人類は頭角を現しはじめ、農耕・牧畜が開始され爆発的に人口が増えた。
シュメール人が5000年前文字を作り、人類の歴史が記録されるようになった。
5万年前から数えて現代まで誕生した人類の総数は1082億人と推定される。
世界人物年表はその中から現代の人類に最も影響力があったと思われる500余名を年代・分野・地域別に整理し、年表化した画期的な人物年表である。

この年表を活用し、その時代に誰が何を成し遂げたのか、その人物がどんな時代を生きていたのか、
その時代にどんな人物がいたのか、人物同士の接点はあったのか、などを見てほしい。

アイザック・ニュートン
ここでは例として、アイザック・ニュートンを挙げる。
ニュートンは1642~1727を生きた大科学者である。同時代のイギリスでは生まれた年にピューリタン革命が起り、6歳の時オランダとの30年戦争が終わり、19歳の年に王政復古があり、24歳でペストが流行した。ニュートンにとっては安定しない青春時代であった。
ニュートンの業績としては、科学革命を起こした「万有引力」「光の性質」「流率法」の三大発見のみならず、数学においても才能を発揮した。「プリンキア」の発表。同時代を生きた著名人に、ハレー彗星で有名なエドマント・ハレーや最後まで相容れなかった哲学者ジョン・ロックがいる。接点はなかったが、哲学者パスカルも同時代を生きている。

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アイザック・ニュートン(イギリス)1642~1727のプロフィール
〇農場主の子としてイギリスの片田舎ウールスソープという小さな村でクリスマスの夜に生まれた。子供の頃のニュートンはすこぶる無口でおとなしかった。外を飛びまわって遊ぶよりも部屋のなかで読書や工作に夢中になっていた。
〇12歳になったニュートンは学問の基礎を修得しつつ、日時計の製作など工作の腕を発揮する。伯父の進言もあり、晴れて学問の道を存分に追求するため、大学に進めることになり、ケンブリッジ大学に入学することになった。
〇研究を続けていたニュートンであるが、ペスト禍の襲来により故郷ウールソープに帰ることになった。ここで過ごした2年間はもっとも多くのインスピレーションを得た時期であった。ニュートンの三大発明である「万有引力」「光の性質」「流率法(微積分法)」はすべてこの頃に得られた。その後ケンブリッジ大学の教授となる。
〇その後反射式望遠鏡を発明したほか、偉大なる著作「自然哲学の数学的原理」、通称「プリンキピア(原理)」を発表し、一躍脚光を浴び、サーアイザックの誕生を得た。アン王女がケンブリッジ大学を訪問し科学者としてはじめて爵位を与えられた。
〇その後1689年国会議員に選出され、1699年には造幣局長官に就任した。
〇王立協会の会長になり、様々な著名人とも交流があり、アン王女、ハレー彗星で有名なエドマンド・ハレー、ロバート・フックなどである。晩年は神学者となり、論文を発表し、波紋を呼んだ。また、錬金術師となり、錬金術の研究に没頭した。
〇1727年に異端の信仰を告白し、その祈りによって罪が許される終油の秘蹟という儀式を拒み、膀胱結石を患い、84年の生涯をケンジントンで閉じた。
〇万有引力の発見でリンゴの木が有名だが、その木は故郷ウールスソース農園の木ある。その木はその後枯れてしまったが、接ぎ木は日本小石川植物園にもある。

世界人物年表

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科学と哲学と熱いハートで社会を見つめる

知性と熱い心

科学技術の進歩は日常生活を劇的に変え続けている。しかし、科学の発展がもたらす合理性や効率性の中で、私たちは、自分の本当の声を見失ってはいないだろうか。
『本当の声を求めて 野蛮な常識を疑え』(前田なお著 青山ライフ出版)は、その「本当の声」を探し求める旅への知的でハードで熱い招待状である。

本書の主要なテーマの一つである「常識を疑う」そして「本当の声に耳を澄ます」とは、どういうことか。

世界人口の1%が全世界の富の半分を所有している一方で、飢え、飢餓に苦しむ人たちがいる。
大人はそれも資本主義社会の現実なのだと言うが、「何か変だ」「その常識は本当に正しいのか」と疑うことが大切なのだ。

「そういうルールはわかっている。けれども、この現状は極端すぎないか? 本当にそれでよいのか」と疑うことをやめたら、より良い社会にならない。

反抗のためだけの反抗も、ルールがルールであるというだけで従うのも愚かだ。必要なのは理解して熟慮した結果、本当に良いと思える生きたルールをつくることである。

現代社会が詰んでいると感じるのは、過度な効率化と競争の中で、個人の声や感情が軽視されているからではないか。自分自身の本当の声を取り戻し、社会の中でどう生きるべきかを考えよう。

「私たちはこの世界の中で人間として特有の視点を持ち、必要に応じて外部世界を心や身体の中に取り入れ変化する主観(主体)でも客観(客体)でもない世界の中に拡張した間主観的な存在である」と本書は言う。

間主観的(かんしゅかんてき)とは、複数の主体がそれぞれ自己意識を持っている中で、それらの間にある関連性に着目する見方(二人以上の人間において同意が成り立っていること)である。
人間は一人では生きられない以上、主観のみで貫き通すことはできない。

では、私たちとは何なのか?
「私たちはただ生きるのではなく、良く生きたいと願う存在である」
私たちは単に食べて生物として生きるのでなく、より良い人生を歩みたいと願っている。理想とする良い人生は人によって違うが、他人の目が無関係というわけではない。
良さを求めるということは、その対極には良くないものがある。
現実社会で生きていくには理想だけを貫き通すことは難しく、理想と現実のはざまで私たちは苦しんだりする。

前田氏はまた、哲学的な問いかけを通じて、私たちが自分自身の存在意義や生きる意味を再考することの重要性を強調する。
科学的、哲学的なエピソードが多い本書だが、その根源にあるのは理屈ではない「熱いハート」である。

前田氏は伝説のパンクロックバンド、ブルーハーツの楽曲に強烈な影響を受けた。その思いに突き動かされて本書を書いた。その意味で、『本当の声を求めて』は、ブルーハーツの精神(自由、反抗)を反映した「学術書」と言えるかもしれない。

社会の不条理や矛盾を鋭く批判し、真実を追求する姿勢を貫く。しかし、それだけでは社会を変えられないことはわかっている。それでも、より良くなるために共に考えようと訴える熱い本である。

『客観性の落とし穴』(村上靖彦著)を読んで

『客観性の落とし穴』(村上靖彦著 ちくまプリマー新書)が指摘しているテーマについて考えてみたい。

1「その発言に客観的な妥当性はあるのですか」
2「障害者は不幸だと思う」
3「働く意思のない人を税金で救済するのはおかしい」
著者は、一見して社会の代表的意見であるような、学生のこのようなコメントに違和感を感じた。そのように言っている学生自身が苦しそうにしている、と感じる。

1については、客観性とか数値をそんなに過大に信用して大丈夫なのか。
2については、幸せ、不幸せの判断基準を他人が決められるのか。
3については、一人ひとりの事情も知らずに決めつけることができるのか。

と考える。

もっと大きく言えば、何でもかんでも数値化して、個々の微妙な人間的なものをバッサリと切り捨てるような世の風潮に違和感を感じる。

それは役立つことを強制される社会の在り方とつながっている。
個人の価値がその有用性や生産性によって評価されるような社会では、人間を機械的に扱い、個々の存在価値を見失わせ、人々の幸福感を損なうのではないか。

客観性という言葉に関連する数値化、単純化、割切りが必要な面もあるが、
もっと多様な、奥深い、思慮深い見方、考え方、あり方を大切にしたい。

そのためのポイントとして、経験を言葉にすることの大切さを説く。

一人ひとりの個人的で、多様な経験を言葉で表現し、その存在や感情を他者と共有し、深い理解や共感を得る。それは自己の理解を深め、人間関係を豊かにする。

言葉で表現された世界には偶然性や固有のリズムがあり、客観性とはかけ離れた世界がある。我々はそこに大きく影響されることもまた事実である。

そもそも、人間は自然物で、偶然の産物であり、それぞれが独自のリズムを持っている存在ではないか。

科学の重要性は否定しないが、それ以外にも真理はあり、一人ひとりの経験の内側にあることをもっと深く考え、表現していく営みを忘れてはいけないと、著者は主張している。

第28回日本自費出版文化賞 応募受付開始

第28回日本自費出版文化賞の受付が、12月1日から始まりました。
受付期間は、12月1日から2025年3月31日までです。

応募資格は以下の条件を満たすものです。

〇制作費用の全額または一部を著者が負担した本
〇日本国内で2015年以降に出版された本
〇主に日本語で書かれた一般書
〇製本された書籍

応募手数料は3000円です。

さらに日本自費出版ネットワークのホームページに登録する場合は、
プラス5000円で、併せて8000円となります。

日本自費出版ネットワークのホームページは、8495点(2024年10月31日現在)の書籍が登録されている日本最大の自費出版物検索サイトで、希望者は販売も可能です。
ただし、ホームページへの登録は賞応募にともなう義務ではありません。

賞状および賞金、賞品は大賞で賞状ならびに賞金20万円(1点)
部門賞で賞状ならびに賞金5万円(各部門1点)
特別賞(各部門1点 協賛各社賞)で賞状ならびに記念品
入選で賞状(各部門10点程度)
第27回より新設された色川大吉賞賞状ならびに賞金10万円(1点)が贈呈されます。

詳しくは日本自費出版ネットワークのホームページでご確認ください。

https://www.jsjapan.net/

340年続いた吉原、天明期の悲劇

徳川家康の江戸入城後、町作りに拍車がかかると商人や労働者が続々江戸にやってきた。彼らは男ばかりであった。やがて江戸詰めの田舎侍や参勤交代の随行などで多くの国元の侍がやってくると江戸はいよいよ男の街としての特徴を露わにする。

当初は主として駿河、京都辺りから引っ越してきた連中が常盤橋、鎌倉河岸、麹町、柳橋と分散して傾城町(遊女屋の集まっている町)を構えた。

幕府はかねて遊郭が勝手気ままに街中(まちなか)に拡散するのは風紀上良くないと考えていたので、小田原潘家臣の子弟であった庄司甚内の取り立てを受け入れ葺屋(ぶきや)町(ちょう)に2丁四方の土地をあてがい幕府公認の傾城町とした。

これが元吉原の始まりである。元吉原は現在の日本橋堀留町、人形町のあたりにあったようだ。

幾らもしないうちに郭内には百六十軒の揚げ屋、妓楼が建ち並び遊女も千人ほどになった。しかし元吉原だけでは需要を賄いきれず、非公認の傾城町も増えていた。

そんな矢先、1657年(明暦3年)正月に勃発した大火(「明暦の大火」)により江戸は焼け野原になり、元吉原も全滅した。焼死者は3~10万人と言われている。

これを機に幕府は町から離れた日本堤の田圃に廓を移す計画に着手した。移設に当たり幕府は楼主達に大盤振る舞いを施した。片田舎に追いやるという、一種の慰謝料の性格もあった。新吉原の広さは旧吉原の五割増し、引っ越し代として10500両が下賜され、初めて夜の見世も許可されるようになった。こうして新吉原は1659年江戸唯一の幕府公認遊郭として新たな一歩を踏み出した。

天明期(1781年から1789年)は新吉原開業から120年余り経過した頃で、ようやく吉原独特の文化、しきたり、流行、言葉づかい、仕組や行事・祭事が四季折々の風物詩として江戸に広く認知されるようになっていた。

廓の主役遊女が演ずる怨恨、嫉妬入り交じったさや当て、讒言(ざんげん)、確執、派閥といった人間くさい争いは登楼客の気を引くための権謀術数、虚実入り混じりった手練手管と相俟って一層異次元の度を増し、吉原特有の文化・伝統を形作っていった。

そして天明5年、今も悲劇として知られる事件が起きた。28歳の旗本(4000石)、藤枝外記と19歳の遊女綾絹(あやきぬ)の心中事件である。綾絹が裕福な町民に身請けされることになり、外記はそれを嫌って2人で逐電したが追い詰められて心中したのだ。

終焉の場所が三ノ輪だったことから箕輪(みのわ)心中と呼ばれている。当時心中は相対死と呼ばれて非常に重い犯罪だったので、外記のお家は改易、綾絹と同い年の奥方も母も押込の処分を受けることになった。

大田南畝が記した「君と寝やるか 五千石とろか 何の五千石 君と寝よ」は端唄として当時流行した。外記には4人の子供も居たが、愛を貫いた。何とも凄まじきは男女の仲である。

この話は岡本綺堂が「箕輪の心中」(岡本綺堂)でまとめている。

天明期、吉原に関連する小説の新刊としては、

『永遠の天明期-大江戸八百八町人物百景―我らかく生けり』(芦中順文著 1,760円 青山ライフ出版)がある。

https://www.amazon.co.jp/dp/4434341375/

「昭和」を笑う子どもたち

『人間はどこまで家畜か』(熊代亨著 早川書房)は、精神科医である熊代亨氏が「自己家畜化」をテーマに、人類が自らを家畜化してきた過程とその影響について解説している。

令和6年、時は流れた。
平成も過去の時代になったが、その頃でさえ、「昭和」と言うと、子供たちがケラケラ笑っていたものだ。

何が可笑しかったのか、「昭和」という大昔の無知で野蛮で、いいかげんな時代の響きに滑稽さを感じていたのだろうか。

確かに今になってみれば、昭和の人々がとんでもなく野蛮に感じる。
平成、令和と、社会は進歩し、洗練されてきたのだろう。
けれども、もっと長い目で見るとどうか。
明治時代、江戸時代、戦国時代、と見ていくと、その流れは一目瞭然である。

われわれは、ものすごい勢いでお行儀がよくなっている。
外圧ではなく、自分たちで、社会のルール、管理を厳格にして、そうなろうとしてなっている。それを本書では「自己家畜化」と言っている。

自己家畜化とは、人間が作り出した環境の中で、より穏やかで協力的な性質を持つように進化してきた現象である。これは、動物の家畜化と同様に、人間の脳や行動に生物学的な変化をもたらしてきた。例えば、ストレスホルモンの分泌が抑制され、セロトニンの分泌が促進されることで、より穏やかな性格が形成される。

より穏やかに、協調性があり、清潔で、かわいらしく、その流れはけっこうなことではあるが、懸念もある。

人間の脳の大きさは徐々に小さくなってきており、これは他の家畜化された動物にも見られる特徴であるという。

現代社会においては、清潔な都市環境、健康や生産性の徹底した管理などが「家畜人たれ」という圧力を強めており、この圧力に適応できない人々は、精神疾患や発達障害として表れることが多いとも指摘されている。

家畜やペットが野生の動物とどう違うか、われわれはよく知っている。管理者にとってはとても扱い安い。

完全に「家畜化」された人間社会は、ユートピアなのか、それともディストピアなのか。熊代氏はこの問いを読者に投げかけ、私たち一人一人に考えることを促す。

人間の自己家畜化は、避けられない未来なのか。
自己家畜化は、より協力的で穏やかな社会を築くための一環だが、その一方で、個々の多様性や独自性、創造性、さらには力強さ、情熱、知性、勇気といったものが失われるリスクもある。

というより、すでに失ったものも多いのだろう。

人類の未来がどうなるか想像できないが、生物としてのバランス感覚を失うとマトリックスの世界がやってくるのかもしれない。

人間はどこまで家畜か

なぜ働いていると本が読めなくなるのか

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『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(三宅 香帆著 集英社新書)がベストセラーになっている。
こんなタイトルの本が売れているという現象がおもしろい。

私のような昭和の人間からすると、当たり前のことに思えるが、
それを深掘りしてみると新しい視点が見えてくる。

まず働くと本が読めなくなる理由は以下になる。

1 時間とエネルギーの制約: 働いていると、仕事に費やす時間とエネルギーが増加するので、読書に割ける時間が減少する。

2 ストレスと集中力の低下: 仕事によるストレスやプレッシャーが読書の意欲を減退させるため。

問題は2である。
仕事は、この令和の時代になっても依然とストレスフルなものなのだ。
そのため、時間があっても、その減退した意欲に適応した情報を提供するスマホ、SNSなどに目がいってしまう。

本など読まなくても、ネットで知識を得るからよいではないか、と思う人もいるかもしれないが、本とネットでは得る情報の質が変わってくる。

本を読まないことで生じるデメリットは以下である。

知識の欠如: 新しい知識や情報を得る機会を逃す。本は歴史、科学、文学、哲学などのさまざまな分野で知識を深める手段。
認知能力の低下: 読書は脳を刺激し、認知能力を向上させる。逆に、読まないことで脳の活性度が低下する可能性がある。
ストレスの増加: 読書はリラックスやストレス解消にも役立つので、本を読まないことでストレスが蓄積し、心身の健康に悪影響を及ぼすことがある。
想像力の制限: 本読まないことで想像力が制限され、創造性に欠ける可能性がある。
言語スキルの低下: 本を読まないことで言語スキルが低下することがある。

もちろんネット記事で補完できる部分もあるが、より深い知識や洞察を得るには本が必要である。
本は時間をかけて執筆され、著者の想い、研究や考察が凝縮されている。
本を読むことで、深い思考や物事の体系的、多面的な理解を促進できる。

本書の著者は、本とネット記事の関係、本を読まないことと労働の関係について、
とてもおもしろい説明をしている。

ビジネスパーソンが本を読まないのは、時間がないからではなく、ノイズ(不必要な情報)があるため読まない。
というのである。
本は長いものであるから、その主旨から外れた話もいろいろ出てくるのだが、
効率を重視するビジネスパーソンは、それをノイズとして、排除してしまう。
けれども本のおもしろさはそこにあるのだが。
思わぬ場面、考え方、知識、イメージなどと出会える機会を提供するのが読書なのだ。

では、どうしたらビジネスパーソンが本を読めるようになるだろうか。
著者は「半身で生きる」という考え方を提案している。

資本主義社会が全身の労働を求めており、それが読書を奪っている。
けれども、もうそんな時代ではないのではないか。
全身全霊で仕事に打ち込まなくても十分に生きていける。

仕事だけでなく、あらゆる活動において「半身で関わる」ことが望ましい。
「全身全霊」が美徳とされているきらいがあるなか、この主張はユニークだが、
バランスのとれた人生、余裕のある人間らしい生き方、といったことを考えると、それもよいかなと思える。

世界人物年表

古今東西、世界中の有名人、偉人(現代人が知っている範囲の)を網羅し、それを四六判大の大判に印刷、一覧できる「世界人物年表」が発刊された。

四六時中、スマホを眺めている現代人だが、その100分の1でも、
こういうものを眺める時間をとってほしい。
いろいろな思いが去来する機会となるのでは、、、

たとえば歴史上の人物はほとんどが、すでにこの世にいない。
ということは、この世界の大半は、すでにこの世にいない人たちによってつくられ、
その中で、われわれ生きている者たちは、日々、泣いたり、笑ったりしているわけだ。

世界は生きている者たちの天下である一方、
死者がつくった枠組み、規則、因習、価値観などに縛られてもいる。
踊らされているのかもしれない。

どの時代の人間に興味があるだろうか。
私が興味を持つのは、紀元前600年から紀元前400年の世界だ。
この頃に、ブッダ、デモクリトスといった天才が現われていることを考えると、
この世界を観察して、思考し、発見するということにおいて、
最も頭が良い人類がいた時代ではないかと思うからである。

世界人物年表

世界人物年表

書店でサイン会を開催

『お呼びでしょうか ―私は死神でございます―』(永井治郎著 青山ライフ出版)の著者、永井さんが、4月29日、板橋区の書店、中板堂ブックワンでサイン会を行った。
永井さんの広い人脈や積極的な営業活動により、100冊以上用意した新刊はめでたく完売したとのこと。

また永井さんは、地道に都内の書店を回っていることで、下記、写真のように、協力していただける書店も多数出てきています。自分の本を営業して回れる、それも自費出版の醍醐味といえます。

サイン会1

サイン会1

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旭屋書店で

旭屋書店で

旭屋書店で平積み

旭屋書店で平積み

お呼びでしょうか ―私は死神でございます―

この5月、『お呼びでしょうか ―私は死神でございます―』(永井治郎著 青山ライフ出版)が発刊された。

本書は、自殺もしくは自死専門のエリート死神。五つの挿話の主人公に本編の死神が絡み、物語が展開していく。
それぞれの挿話の主人公はすべて六十五歳以上の老人で、これまで懸命に生きてきたが、ときには運悪く、あるいは不条理な定めに翻弄され自ら死を望む。そのシグナルを天上の死神がキャッチし、娑婆に降りてきて、苦しみの負担を取り除き、心安らかに天上に導いていく。普通のおどろおどろしい死神と違った、ソフトな面を持った死神界でのエリート中のエリートである。
その死神が六十六歳から八十六歳までの老人たちの死に様に付き合っていく。

五つの物語に登場する老人たちの悲喜こもごもの人生の終活に、あるときは積極的に、あるときは少し傍観的に、死神が絡み合うという娯楽作品であるが、老いや死について、深く考えさせられる。
テーマは暗いが、それでいて、なぜか明るく、温かい気持ちになれる小説である。

お呼びでしょうか ―私は死神でございます―

お呼びでしょうか ―私は死神でございます―

情報の運び屋 感想

『情報の運び屋』の感想が続々と送られている。
その一部を紹介します。

【読者感想A】生き物は情報の運び屋だという視点に惹かれます。いま、連日戦争の報道がなされています。もともとウクライナには国民に選ばれた政権がありながら米国のバックアップを受けた企業の後押しで国民に選ばれた政権を倒し、その結果大統領になったゼレンスキーの政権は非合法である。元来定住していたペリシテ人(パレスチナ人)を約束の地・選ばれた民との預言をうけたユダヤ人が追い出しにかかり、その結果争いがつづき、世界中に広がるユダヤ人社会から潤沢なバックアップを受ける驚異の食料自給率85%のイスラエルの中東問題は解決を見ることはない。これらはすべて私がこれまで得ることができました稚拙ではありますが“情報”のほんの一部であります。〔松戸市在住、医師〕

【読者感想B】情報を「生き物」として捉え、そしてその情報への愛おしさを余すところなくこの書物に書き記された「情報愛」には、「ほっこり気分」にさせられますと同時に、「情報」が人のみならず動物各種へもたらすその恩恵の大きさを再認識させられました。ご丁寧にも、巻末には各種情報用語の解説までをきちんと添えていただき、これ迄、いい加減な各種情報用語への理解に安住していた自分を反省させてくれる機会ともなりました。

先ず、巻頭言(プロローグ)にて、「・・・・・情報の運び屋(上下巻)が新しい時代を担い、新たな価値観を構築するあなたの手元に、ようやく今、漂着したのです。」という書き出し、これは著者の文才を伺わせるに十分なもので、只々脱帽するばかりです。本書のサブタイトルを通覧してみましても、例えば「情報は歓喜し解き放された」、「林住期は情報の収穫期」、「生理痛は情報たちの怒り」、「情報たちの結婚式」etc. 何ともアイ・キャッチングでして、先ず読者の興味を誘うにはとても有効な手法と理解、感服いたしました。その一方で、例えば米国空軍のちょっとユーモラスな「情アトム」なる兵士を登場させるなど、もう文章表現を自家薬籠中のものとされている手法には思わずホッコリ、ニンマリです。

「情報は歓喜し解き放たれた」、「林住期は情報の収穫期」、「生理痛は情報たちのいかり」、「若き情報の礎」、「情報たちの結婚式」などなど、読者にとっては何とも “Eye catching” なサブタイトルも、本書への読書欲をいよいよ掻き立ててくれますネ。下巻は未読状態ながら、サブタイトルを見るだけでも読書欲をそそるに十分でして、引き続きの読書が楽しみでございます。〔東京都在住、元会社員〕

【読者感想C】
「情報の運び屋」というタイトルにとても興味を持ちました。「過去と現在の延長線上には、われわれの未来はない!」いかに視座転換することができるか・・・視座を高めるか・・・、それによって新しい気づきや発想、経験などを積むことができると気づかされました。(宇都宮在住、主婦)

【読者感想D】
情報の伝達手段が遺伝子だけだったものが、言語が出来、活字が出来、通信が現れ、空間的に時間的に情報が伝達されるようになった今、情報の運搬に着目されてのお話は興味深いです。学生時代に哲学書を読み全知全能の神による超人君主が理想ではないかと思ったこともありました。(中国やロシアの状況や宗教戦争をみて超人君主主義は非常に危険とさとりましたが・・・)〔会社社長〕

情報の運び屋 上巻 情報の路

情報の運び屋 下巻 情報の詩

六義園に行ってみた

先日、ふと思い立って六義園に行ってみました。

六義園は、東京都文京区本駒込にある都立庭園です。
この庭園は、元禄8年(1695年)、五代将軍綱吉の家臣柳沢吉保によってつくられたそうです。

この辺り、江戸時代は鷹狩りなども行われる田舎だったようですが、
現在では山手線駒込駅からも近く、思いっきり都会の中にあるのです。

その街中にあって、まるでベルリンの壁のような、レンガの重厚な塀に囲われて、
一歩中に入ると、江戸時代を思わせるような風流な、時の流れを忘れさせる世界なのです。

広い敷地には、回遊式の築山や池、小さな滝、石が配置されており、
花の季節、紅葉の季節にはさぞ美しいだろうと思わせます。

この庭園の景色は、江戸時代から有名であった紀州の和歌の浦の景勝をモデルに作られたそうです。

小石川後楽園と並ぶ江戸の二大庭園の一つです。

明治の時代になると、三菱の創立者岩崎弥太郎が、六義園を買収し、岩崎家の別邸となり、その後、東京市に寄贈されました。

一周するのに20分もかからないですが、回り終えたところに、
峠の茶屋風のうらびれたような、土産物をおく店がありました。

そこで景色をながめながら、うどんを食べました。
食べながら、なぜか
大学受験に失敗し、電話で「ダメだった」と伝えたときの
父の残念そうな声を思い出しました。

あの頃の父は50歳くらいで、今の私よりずっと若かったのだ、
仕事は大変だったろうな、などと思いました。

すると、そんな習慣はまるでないのに、
俳句のようなものが浮かびました。

うどん食べ 父思い出す 六義園

季語がないから俳句にはらないか。

六義園

六義園

六義園

六義園

『それでも大丈夫 不安を力に変える方法』
(大嶋信頼著 1,400円+税 青山ライフ出版)
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