人類の誕生と総数
5万年前から数えて現代まで誕生した人類の総数は1082億人と推定される。
「世界人物年表」(重田憲三監修 青山ライフ出版)はその中から現代の人類に最も影響力があったと思われる500余名を年代・分野・地域別に整理し、年表化した画期的な人物年表である。
この年表を活用すれば、その時代に誰が何を成し遂げたのか、その人物がどんな時代を生きていたのか、その時代にどんな人物がいたのか、人物同士の接点はあったのかなど、100年、200年規模の俯瞰的な視点で人類史を見ることができる。
ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートヴェン
今回はベートヴェンを挙げる。
ボンの音楽家の家に生まれた。幼いころから父の英才教育を受けた。22歳のころにはハイドンに認められ、ウィーンに出た。ウィーンに来てから4年が経った1796年の時点で既に同世代の中でも最も評価される作曲家となっている。当時刊行された『ヴィーン・プラハ音楽芸術年報』の作曲家に対する寸評の項目においてベートヴェンはハイドンに次ぐ位置で評価されている。人物としては気分の揺れが激しく、変わり者であるとされたが、多くの人々から敬愛され、尊敬されていたことは、その盛大な葬儀と多数の参列者を集めたことからもわかる。生前はゲーテとともに散歩をしたこともあった。
(Wikipediaより)
ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートヴェン(ドイツ)1770~1827のプロフィール
〇18世紀後半のフランス革命以前、音楽は貴族の娯楽であり、サロンでのつきあいの道具にすぎなかった。その意味で、音楽家たちは単なる職人という地位に甘んじていた。そうした中でベートヴェンが誕生し、音楽を未踏の芸術の域にまで高め、楽聖と呼ばれるまでになった。
〇ライン川沿いのボンで生まれた。祖父も父も選帝侯(神聖ローマ帝国の皇帝を選ぶ貴族)と呼ばれる居城に仕える楽師であった。
〇父からの音楽教育が始まり、18歳の時宮廷オルガン奏者となる。その後ウィーンに留学し、ハイドンに師事した。ウィーンではピアニストとして活躍し、「悪魔の指をもつ演奏家」として知られるようになった。
〇20代後半になって、作曲家として活動することになり、交響曲第1番を自ら指揮をとり、演奏した。その後旺盛な創作意欲を発揮し、数多くの名曲を生み出した。「月光」、ボナパルトに捧ぐとした3番「英雄」、第5番「運命」、第6番「田園」など発表し、名声を得た。
〇弟二人の面倒を見ることになったが、あまりそりがあわず、弟の妻とも折り合いが悪かった。この愛憎半ばする兄弟関係はベートヴェンを苦しめた。
〇酒を飲むことが好きだった。夕方になるとふらりと居酒屋に顔をだしビールなどをたしなむこともしばしばであった。有名な作曲家になった後も変わらなかった。もっとも愛したはライン産のワインであった。
〇晩年は酒の影響もあり、腸と肝臓に疾患を併発し、腹水がたまり始め、数回の手術をしたが、56歳で息を引き取った。友人に向かって、「友よ、喝采を、喜劇は終わった」というローマ喜劇の常套句をユーモアを交えてつぶやいた。
〇ベートヴェンの言葉–私が心のなかにもっているものは、外に出なければならない。だから私は作曲する。