『客観性の落とし穴』(村上靖彦著 ちくまプリマー新書)が指摘しているテーマについて考えてみたい。
1「その発言に客観的な妥当性はあるのですか」
2「障害者は不幸だと思う」
3「働く意思のない人を税金で救済するのはおかしい」
著者は、一見して社会の代表的意見であるような、学生のこのようなコメントに違和感を感じた。そのように言っている学生自身が苦しそうにしている、と感じる。
1については、客観性とか数値をそんなに過大に信用して大丈夫なのか。
2については、幸せ、不幸せの判断基準を他人が決められるのか。
3については、一人ひとりの事情も知らずに決めつけることができるのか。
と考える。
もっと大きく言えば、何でもかんでも数値化して、個々の微妙な人間的なものをバッサリと切り捨てるような世の風潮に違和感を感じる。
それは役立つことを強制される社会の在り方とつながっている。
個人の価値がその有用性や生産性によって評価されるような社会では、人間を機械的に扱い、個々の存在価値を見失わせ、人々の幸福感を損なうのではないか。
客観性という言葉に関連する数値化、単純化、割切りが必要な面もあるが、
もっと多様な、奥深い、思慮深い見方、考え方、あり方を大切にしたい。
そのためのポイントとして、経験を言葉にすることの大切さを説く。
一人ひとりの個人的で、多様な経験を言葉で表現し、その存在や感情を他者と共有し、深い理解や共感を得る。それは自己の理解を深め、人間関係を豊かにする。
言葉で表現された世界には偶然性や固有のリズムがあり、客観性とはかけ離れた世界がある。我々はそこに大きく影響されることもまた事実である。
そもそも、人間は自然物で、偶然の産物であり、それぞれが独自のリズムを持っている存在ではないか。
科学の重要性は否定しないが、それ以外にも真理はあり、一人ひとりの経験の内側にあることをもっと深く考え、表現していく営みを忘れてはいけないと、著者は主張している。