伊藤桂一先生の思い出

直木賞作家の伊藤桂一氏が10月29日に亡くなった。
99歳で老衰とのこと。

新聞の夕刊で訃報記事を見つけ、はっとした。
オートバイを四谷駅近くの広い歩道に止めた時の
風景や空気感まで、30年前のことが蘇った。

30年前、小説家養成講座に通っていて
そのメイン講師が伊藤桂一先生であった。

その頃すでに、私からすると優しいおじいさんという感じであった。
講座とは別に、稚拙な手書き原稿用紙を渡したところ、
わざわざ丁寧な感想を書いて返送してくださった。

考えてみれば、私のつたない小説を読んでくれた唯一のプロ作家であったが、
生意気で無礼な若者であった私には、
そのありがたみがよく分っていなかったのが悔やまれる。

芥川龍之介が通っていた小学校

前回、JR両国駅の北側を紹介したので、今回は南側を紹介する。
こちらはまた歴史記念碑の宝庫で、10分ほど散歩するだけで
いろいろなものを目にすることができる。

駅を出て京葉道路を渡り、1区画入っていくと両国公園があるが、
この辺り一帯にさまざまな跡がある。
まず両国公園内に「勝海舟生誕の地」の碑がある。
この公園の向かいに、芥川龍之介が通っていた両国小学校があり、
「芥川龍之介文学碑」がある。
碑文によると、
芥川は1892年に東京市京橋区入舟町で生まれたが、
母ふくが生後七ヶ月で発病したため、
本所区小泉町(現在の両国)に住んでいたふくの兄に引き取られ、
やがて芥川家の養子になったとある。

芥川の母は精神を病んだのである。
生まれてすぐに外に出されるというのは、
昔は多かったのかもしれないが、夏目漱石と同じである。
後に精神の病で苦しんだところまで芥川と漱石は似ている。

「芥川龍之介文学碑」のすぐ先に忠臣蔵で有名な「吉良邸跡」がある。
元禄15年(1702)12月14日に赤穂の四十七士が討入りしたその場所である。
当時ははるかに巨大な屋敷だったが、
現在残されているのは邸内の「吉良公 御首級(みしるし)洗い井戸」を中心に、
有志が東京市に寄贈した一画だという。

今となってはビルの谷間にある30坪ほどの公園だが、
格式ある「なまこ壁」の中に入ると、園内には吉良上野介義央(よしひさ)の座像、
みしるし洗い井戸などがあり、江戸時代の雰囲気が味わえる。

忠臣蔵では悪役に仕立て上げられた吉良上野介だが、
地元の愛知県西尾市吉良町での評判は高く、
慕われる殿様であったという。

両国は「江戸」を感じさせる一帯で、
ちょっと散歩するにはよいところだ。

両国駅前の案内板

両国駅前の案内板

 

 

芥川龍之介文学碑2

芥川龍之介文学碑2

 

芥川龍之介文学碑

芥川龍之介文学碑

 

吉良邸跡

吉良邸跡

 

被服廠跡の悲劇

JR両国駅の北側に両国国技館や江戸東京博物館があるのはご存じの方が多いだろうが、その裏手にある「横綱町公園」はあまり知られていないと思う。

この公園は「被服廠跡」「東京都慰霊堂」「東京都復興記念館」とも呼ばれている。
かつての被服廠跡であって、
現在は東京都慰霊堂と東京都復興記念館がある公園である。

東京都慰霊堂には関東大震災による死者約5万8000人と、東京大空襲の死者約10万5000人、あわせて約16万3000体の遺骨が安置されている。

中に入ると、木片の短冊があり、
「これからの人生に夢をもっていた多くの人が亡くなりました、そのことを思ってあなたの夢を書いてください」とあった。
3.11の大震災から5年、多くの悲劇を見てきたが、その何倍もの痛ましいことが、まさにこの地で起きたことを改めて認識させられた。

復興記念館は関東大震災の惨事を長く後の世に伝えるために昭和6年に建てられた年輪を感じさせる建物で、こちらも無料で入館できる。この展示には衝撃を受けた。

この被服廠跡で関東大震災による最も痛ましい惨事が起きた。
たまたま避難に適した広場であったことから地震後、大八車に布団などの家財道具を積んだ周辺住民が4万人あまり避難してきていた。
狭い公園が人と家財道具で埋め尽くされた状態であった。

そこに、隅田川対岸の火災の火が強風にあおられ、渦を巻いて飛んできたのだ。
あっという間に四方八方火に囲まれ、逃げるに逃げられず、ほぼ全員、
3万8000人が犠牲になった。その惨状は想像を絶する。

関東大震災は1923年。
東京大空襲は1945年。

そして今、この惨劇の現場は、
立て続けに起きた東京の大惨事の追悼記録として残っている。

横綱町公園

横綱町公園

 

東京都慰霊堂

東京都慰霊堂

東京都慰霊堂屋内

東京都慰霊堂屋内

関東大震災の悲劇を伝える東京都復興記念館

関東大震災の悲劇を伝える東京都復興記念館

関東大震災の火災で丸ビルの溶けた鉄骨

関東大震災の火災で丸ビルの溶けた鉄骨

アメリカで自費出版が増えている!

アメリカでは自費出版本の人気がじわじわと上がってきているようです。

その一番大きな理由は電子書籍の普及です。
amazon kindleのような電子出版を活用することで
個人で出版する(自費出版)の垣根が格段に下がり、
その中から売れる本が出てきたことで、
出版業界の中でも、そうした本の割合が高くなってきているのです。

アメリカでは、2012年の時点で、自費出版市場が
書籍市場全体の17%を超えていたとのことです。

日本では縦書きやルビなど言語的なハードルがあり、
アメリカほど電子書籍化が進んでいませんでしたが、
市場は一貫して伸びており、2014年度で1400億円を超えました。

それでも、まだ紙本の市場の約10分の1ですが、
早晩これが3分の1、2分の1という方向に進んでいくと思われます。
それと同時に、自費出版(個人出版)の割合も高まっていくのでしょう。

興味がおありでしたら、下記の記事もお読みください。

http://aoyamalife.co.jp/contents/theme01/theme03.php

一昔前の定年は55歳だった!

11月17日の読売新聞夕刊「よみうり寸評」に、
大学入試で初めてセンター試験(当時は共通一次試験)
が導入された1979年に受験した世代が今年55歳だよね。
そして当時は55歳が定年だったよね、という話があった。

「そうなんだよね」と、自分がそうだから、
いろいろな意味で考えさせられた。

もうそんなに経ったのか、ひと昔前ならもう定年か、とか。

55歳で引退したら、あと35年(90まで生きるつもり)どうするの?

ひと昔前のことが今では考えられない気がする。

それだけ時間の経つのは速いし、
その速い流れの中で世の中は大きく変わっている。

ジョン・レノン没後35年

12月9日、テレビを見ていたら、ジョン・レノン没後35年のニュース。

そう、そう。35年前の1980年12月8日に、ジョン・レノンは凶弾に倒れたのだった。当時のことが鮮やかに、というより、夢か幻のように思い出された。

僕は学生で、バンド仲間と新宿の居酒屋で飲んでいた。ジョン・レノン、ジョン・レノンと、その死を悼みながら。

その年は、ちょうどジョン・レノンが5年にわたる子育て休暇的な沈黙を破って、「ダブル・ファンタジー」というアルバムを出して盛り上がっていたさなかだった。

ジョン・レノンは40歳、僕は20歳だった。

それから35年たったわけだ。

田端文士村記念館に行ってきた

東京・山手線には29駅ありますが、乗降客のランキングを見ると、
新宿、渋谷、池袋、品川、東京というのがベスト5のようです。
で、下位のランキングは、25位の大塚から、田端、目白、新大久保ときて、
最下位は鶯谷とのことです。
この中で、私にまったく縁のないのが田端駅。
30年以上東京にいて、1度も降りた記憶がないので
先日、行ってみました。

田端など何もないのではと思いながら、
山手線を降りて、よく分からないまま南口を出たところ、
本当に何もなかったので驚がくしました。

いくらなんでも山手線の駅なのだから、
駅前には店の10軒、20軒はあると思っていたからです。
そこはいきなり崖上・高台の住宅街であり、
崖の下を山手線が走っていたので、その見晴らしのよさは
山手線駅前随一でしょう。
どうやら田端駅に沿って走る東北本線の西側が崖上、
東側が崖下という感じになっているようです。

気を取り直して北口に出ると、
アトレなどがありそれなりに賑やかでした。

すぐ目の前に『田端文士村記念館』がありました。
入場無料でした。

田端駅の西側(高台側)は明治から昭和初期にかけて、
多くの芸術家・文士が住み、文士・芸術家村の様相を呈していた。
それを記念して建てられた記念館とのことです。

パンフレットによると、
明治22年、上野公園の外れに東京美術学校(現東京芸術大学)が開校されたのがきっかけで、
その卒業生が同じ台地続きで便のよい田端に住んで活動するようになった。
そのうち直木三十五らの文士も集まり出し、
大正3年に芥川龍之介が転入してくると、室生犀星、林芙美子、
サトウハチロー、菊池寛、萩原朔太郎らの文人が多く移り住み、
『文士村』という状況になった、とのこと。

記念館には芥川龍之介や室生犀星らの自筆原稿など、
非常に興味深い資料が展示されていました。
芥川の手書き原稿を見ましたが、案外さらっと書いている。
推敲に推敲を重ねたという感じではないと思いました。

それより驚いたのは、ジオラマで見た芥川の晩年の住まい。
部屋が10ほどある屋敷で、先般見た漱石の家よりずっと立派でした。

芥川はこの家の2階の書斎で「唯ぼんやりとした不安」という言葉を残して、
かわいい盛りの幼い3人の子どもを残して、昭和2年に自死しました。
いまさらながら、なぜ? と思わずにいられません。

文学好きの方は行く価値がある記念館です。

田端文士村記念館

田端駅前にある田端文士村記念館

新宿区『漱石山房』記念館、建設中

新宿区では2017年2月の開館をめざして、
『漱石山房』記念館(仮称)を建設中である。

なぜ、この情報を知ったかというと、
行ったことのないところをぶらぶら歩くということを
休みの日などによくやっていて、突き当たったのである。

その日は、飯田橋駅で降り、早稲田通りを神楽坂に向かって
歩いて行った。神楽坂上まで上り、交差点を越えてさらに行くと、
東西線の神楽坂駅にいたる。
駅の西側の信号を左折すると矢来町となり新潮社の社屋があった。
昭和30年代を感じさせる、
私にとってはノスタルジックな重厚感のある建物である。
ここから数々の文学作品が生み出されてきたのだなと思いながら通り過ぎた。
矢来町と新潮社を見てみたかったのである。

さて、次はどこへ行こうか?
スマホの地図を見ると、早稲田方面に『漱石公園』の表示がある。
これは行かねばと、細い通りを早稲田に向かって歩いた。

10分ほど歩いたろうか。
漱石公園は入口に漱石の胸像があるのですぐにわかった。
左手に工事中の建物があった。
小さな事務所に入ってみるとボランティアのおじさんが、
「まさに、この場所に漱石山房があったんですよ」と教えてくれた。

漱石に関するとても充実した資料をいただいた。
さすがに地元だけあって、見たこともない、
漱石の子どもの頃、学生時代の写真などが豊富に載っている冊子である。

https://www.google.co.jp/maps/@35.703772,139.7257798,18z

『三四郎』『こころ』『道草』など、
その代表作はほとんどここ(現早稲田南町7番地)で書かれた。

ここにあった8畳が4部屋に、子ども部屋、女中部屋と台所の借家に、
内田百閒、芥川龍之介、寺田寅彦、森田草平、
鈴木三重吉らの文人が木曜日になるとやってきて、
文学を語ったりしていた。
この漱石が最晩年を過ごした漱石山房を再現し、
資料などを展示した「漱石山房記念館」をいま建設中なのだ。

漱石は生まれたのもこの近くの喜久井町なので、
新宿区で生まれ、新宿区で亡くなったことになる。
新宿区としてはまさに地元の作家が国民作家ということで、
このような記念館を建てたくなる気持ちもよくわかる。

漱石は生まれてすぐに四谷の古道具屋に里子に出され、
すぐに戻されたが、またすぐ塩原という夫婦に養子に出された。
けれども漱石が8歳の頃、この夫婦が離婚したので、
夏目家に戻された。
6人兄弟の末っ子で、両親もすでに高齢であって、
余計者扱いされたという。

そういえば漱石の小品の中に幼少期の思い出を書いたものがあり、
実の母親が少しだけ愛情を見せてくれた言葉を
うっすらと記憶しているというくだりを読んで、
ああ、と思ったことがある。

そういうちょっとした少ない愛情、薄いけど確かに感じた愛情
に頼って、心の支えにしていたような気がしたからだ。

どうみてもかわいそうに思える幼少期だが、
こういう環境のどこに、
あのような巨大な才能をはぐくむものがあったのかと思う。

夏目坂の方にも足を伸ばし、印象に残る散歩であった。

漱石公園

漱石公園

大戸屋、三森久実会長のこと

大戸屋の三森久実会長が、この7月27日に亡くなった。訃報を知ったとき、まさかと信じられなかった。まだ57歳だというのに。

とても悲しく、寂しい気持ちになった。

三森会長に初めて会ったのは1997年頃だと思う。

経営誌の記者として、西武線田無駅の近くにあった会社に取材に行ったのが最初だ。

今でこそ400店舗もある大戸屋だが、当時はほとんど知られていなかった。

狭い定食屋の片隅のようなところで、三森社長(当時)は、子供のいなかった叔父の養子になったこと。その叔父が池袋で人気の定食屋を営んでいたこと。高校時代は野球に打ち込み、プロ野球選手になりたかったが諦め、卒業後、著名レストランで働いたが、非常に尊敬していた叔父が間もなく亡くなってしまい、21歳で店を継ぐことになったことなどを訥々と話してくれた。

池袋の繁盛店で得た利益で、2店目、3店目と増やしていった。20代の早い段階で大金を手にした。若気のいたりで大きな失敗もした。そうした経験を経て、家庭の味を提供する定食屋というぶれない軸を持った。

家庭で健康によい料理がつくれない時代になったからこそ、そんな定食屋として上場したいとのことだった。

「うちのお店に入って、1人のお客さんが値段や味に満足して、少しでも幸せな気分になれたら、その分だけ世の中がよくなる。だからやるんだ」と、志を語ってくれた。

取材を終えるとさっそく、「上場を目指している定食屋がある!」という記事を書いた。

大戸屋が今、こんなにも増え、多くのファンを得ているのは、根柢にこの志があるからだと思う。

 

素朴な考え

自分の本質とは何だろう?

この名前は親がつけたものだから本質ではない。

身体一つで生まれてきた。

では、この身体が本質なのだろうか?

であれば、死ねばすべてがなくなることになる。

そもそも、この身体がどこから生じたかというと、
親から生まれたといっても、
親にこんな複雑なものをつくれるはずはないのだから、
自然に生じたとしか思えない。

この宇宙の中で自然発生的に生まれたのである。

銀河、星、惑星、草木、犬猫、虫、石などと同じように。

宇宙の創造物の一つといえる。

この世の秘密を知りたいと思っている。
そういう人はどれくらいいるのだろう。

そもそも、動いているとはどういうことなんだろうと考えたとき、
パラパラマンガの映像が浮かんだ。

なるほど、動いている、動いているように見えるということは、
瞬間の映像があって、それが連続して投影されていることなんだなと。

それが3次元空間で自動的になされているのがこの世なのかもしれない、
などと変なことを考えました^_^

では、そのパラパラマンガを動かしているのは誰なんでしょう。

一番ありそうなのは自分。

自分の錯覚だと考えることはできるが、では自分とは何なんだとなる。

そうなるともうわからない。

最近は、自分などない。
すべてが錯覚だという認識が広がりつつある。

スピリチュアルとか覚醒とか言われている。

わかったとはいえない。

わかろうとすること自体がエゴのせいらしい。
エゴが覚醒のじゃまをしているのだと。

しかし、じゃまなものがこの世にあるはずはない。
必要だからこそあるはず。

エゴの先にあるものがこの世を生み出しているのかもしれない。

科学技術に代表される知性が何千万年、何億年と、
さらに進化を続けていけば、この秘密を正面突破するかもしれない。

すべてを解明したうえで
宇宙そのものを自分たちでつくってしまったのではないか?

 

団塊世代による団塊世代のための雑誌

この4月、段階の世代の明日へ『myb』という
年2回発行のブックレットの新装第1号が発刊されました。

ある会合でたまたま隣に座った方が、
版元みやび出版の社長だった縁で本が送られて来ました。

http://www.miyabi-sp.biz-web.jp/

知る人ぞ知る小さな会社の本ですが、
執筆陣は加藤典洋、橋本治、三田誠広、南野坊ら、
すべて団塊世代というユニークなもので、
とても読みごたえがあります。
今号は、菅直人元首相のインタビューが載っていました。

次は10月発売。
年間購読料2000円と安いのも魅力です。

名古屋城を見た

4月に行われた自費出版ネットワーク勉強会の翌日、名古屋城を見てきました。

いつも素通りしておりましたが、やはり見てみるものです。

名古屋城は、徳川家康が加藤清正や福島正則らに命じて築城した城です。
金のシャチホコで有名ですが、なんと城郭建築で、国宝第1号に指定されています。
大阪城や姫路城を差し置いて国宝第1号なのです。
それだけ貴重な文化財なのです。

天守閣に上りましたが、確かに立派なお城でした。

ただ、残念ながら国宝に指定されたオリジナルは第二次世界大戦の空襲で焼失。
いまの城は戦後に再建されたものです。

焼失前の写真が展示されていましたが、それを見て、思いました。
その写真には城だけでなく、城を取り巻く町並みも写っていましたが、
戦前までは、大正、明治を経て江戸時代の風景とそんなに変わっていない。

日本というのは、戦後になって大変貌した国なのだなと実感しました。
nagoyajyou2
nagoyajyou1

自分史活用推進協議会の活動

4月17日、自費出版ネットワークの勉強会があり、
名古屋に行ってきました。

勉強会の特別講座として、
「自分史活用推進協議会」の活動を紹介していただきました。
同協議会は「自分史を書く人、活用する人を増やして、日本を元気にしよう」という目的で2010年に設立された一般社団法人です。
こんな団体があること自体、時代を感じさせられます。

自分史でなぜ日本が元気になるのか?

1 自分史を書くと本人が元気になる。
2 家族とのコミュニケーションがよくなる。
3 社会にもよい影響を及ぼす。

という理由があります。

実際、家族でも自分の両親がどんなことを考え、どんな人生を歩んできたのか、詳しくは知らないものです。自分史を書くことで初めて、そうしたことを子供や孫に伝えられる。
そうしたコミュニケーションがあることで自然に尊敬の気持ちや相互理解が深まる。

とのことでした。

自分史を残したい年代は70代から80代とのことですが、
弊社の事例を見ても確かにそうです。

60代はまだまだ忙しく、やることがいっぱいあります。
70代も後半になって、人生の意味を総括し、
集大成を残し、伝えたいと思うようになる人が多いようです。

人工知能が写真のキャプションを書く

前回に引き続き人工知能の話題です。

グーグルの人工知能は写真のキャプション(写真の説明文)
が書けるようになったという。

これは編集を生業としている私には衝撃のニュースでした。

同社のサービスであるyou Tubeには猫の動画が大量に投稿されている。
この大量のデータをコンピュータに取り込んで、
猫とはこういうものだということを人工知能に学ばせた。

同じように人間や、人間の子供や、その動作も学習させた。

その結果、写真に「猫を抱いた子供」という
キャプションを人工知能に書かせることに成功したという。

つまりコンピューターが画像を認識して、文章を作成したのだ。

まだまだ人間の幼児程度の段階のようだが、
ここまできたら後は、さらに大量のデータを与えて、
賢くさせるだけではないか。

ヒェー、編集者の仕事は、少なくともあと
100年は機械に奪われることはないと思っていたが、
そんなに時間はかからないのかもしれない。

「2045年問題」をご存じですか?

ソフトバンクがPepper(ペッパー)というロボットをつくり、
いろいろなところで宣伝していますが、すごいと思いませんか?
あれよあれよというまに未来が迫って来ている感じです。

Pepperは本体価格198,000円とされていますが、
ソフトバンクはこれを売って儲けようとしているのではありません。
将来のことを考えてやっているのです。

今、人生知能の世界が大変なことになっているようです。

つい3年くらい前に大きな技術的ブレークスルーがあり、
今後はものすごい勢いで賢くなっていきそうなのです。

人工知能(AI)という言葉は昔からありましたが、
これまでの人工知能は、人間があらかじめ学習させたことを
実行するというレベルでした。

ところがこれからの人工知能は、自分でどんどん学習していく。
膨大なデータを取り込んで自分で学んでいくので、
気がついたときには人間を超えてしまったという未来が
現実味を帯びているのです。

「2045年問題」をご存じですか?
人工知能の能力が人類を超える時期が2045年頃やってくるという予測です。

これをシンギュラリティ(技術的特異点)と呼びます。

人類を超える人工知能ができてしまえば、
その人工知能は、また自分を超えるさらに賢い人工知能を開発し、
その人工知能もまたさらに自分以上の人工知能を開発し……と
連鎖的に発展していくので、もうこれは、
あっという間に、人類が想像もつかない世界に
突入していってしまう可能性があるのです。

その時期がわずか30年後に来ると予想されているのです。

人工知能の世界で今一番目立っているのはGoogleで、
世界中の有力ベンチャー企業を次々と買収しています。
その一つが「Google DeepMind」という人工知能で、
人の手助けがなく、驚異的なスピードで自ら学習するシステムだそうです。
たとえば、ビデオゲームを見るだけで、
あっという間にプレーの仕方を学習してしまうのです。

もちろん次世代の覇権をGoogleに握られてなるものかと、
amazon、IBMなどの有力企業もこの分野に力を入れており、
そうしたなかで、ソフトバンクはPepperを出しているのです。

いずれにしても
これからの30年は、これまでの30年とは
比べものにならないくらい大きく、急速な変化の時代
となりそうです。